2024年12月24日 (火)

メリークリスマス24

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Xmas-24  

早いもので今年ももう年末です。恒例の季節のクリスマスカードを貼らせていただきます。今年は何と言ってもスポーツでは大谷に始まり大谷に暮れた年と言えるでしょう。

 移籍後の電撃的結婚には驚かされました。野球にしか興味がないと思われた彼が何と、素晴らしいお嫁さんをもらっていたなんて・・・なかなか隅に置けません。その直後の20億円を超す詐欺事件では随分とヤキモキさせられましたが、大活躍でそれを吹き飛ばしました。

 40−40程度は楽勝で、前人未到の50−50は予想の遥か斜め上を超えて行ったのです。終盤には三冠王まで争うのですからどうかしています。結局あらゆる部門で自己ベストを更新し、打撃10部門で首位という快挙を成し遂げたのです。ここまでの活躍を予想した人はいなかったのではないでしょうか。

 でも考えてみれば、彼ほどの逸材が打撃に専念出来たのですから当然なのかもしれません。新妻の内助の功がそれにブーストをかけた事でしょう・・デコピンも?やはり精神的支え、生活の安定は大きいのです。

 そんな大谷夫妻のオフですが、クリスマスシーズンはハワイの新築豪華別荘でのんびりしているものと思われます。真美ちゃんにはもちろん豪華Xmasプレゼントが待っていました。毎回ポルシェじゃつまらないので、今回はドジャーブルーのフェラーリ488スパイダーです。

 「まあ素敵!」早速オープンにして試乗しようと思ったのですが、常夏の国だと言うのに外は何と雪??「はっ、WHY? 翔さま雪が!」「初雪じゃ濡れていこう」という訳にもいかないので、お預けを食らい少しおかんむりの真美ちゃんだったのです。

 そんな、根も葉もない噂がまことしやかに飛び交う年の瀬ですが、来年は大谷夫妻にも我々庶民にとってもさらに良い年になって、もっといい球、玉のような子にも恵まれますよう祈りたいです。

 今年一年大変お世話になりました。来年もよろしくお願い致します。

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2024年8月30日 (金)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしてるのか?(最終回)

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その(5)からの続きになります。

 SDGs は新興宗教

 また巷にはテスラ(EV)真理教やSDGs崇拝も数多くいると言われますが、刮目すべきはこれらが国家間において政治問題化している事です。つまり純粋な環境問題は置き去りにされ、特定の国、あるいは誰かに都合のいいように特定の問題をクローズアップし扇動しているのが垣間見えます。

実際には空気中に1万分の4しかないCO2よりも遥かに悪質なのがNox(窒素酸化物)Sox(硫黄酸化物)またPM(粒子状物質)で、それによる死亡者数は年間数百万人と言われています。なぜそこはもっとクローズアップされないのでしょうか?CO2では人は死にません。むしろ植物にとってはなくてはならない物です。

ジュラ紀・白亜紀には今よりCO2は5倍以上もありましたが、植物はよく茂り、大食いの恐竜も全盛でした。多少気温は高かったかもしれませんが、生物にとっては適している環境と言えます。ちなみに産業革命時のCO2濃度は280ppmで今は385ppmです。250年で105ppm増えました。

それが今の5倍になるには、このペースで増え続けるとして、4000年以上かかります。しかもその内人為的なものはCO2全体の3%に過ぎないのです。これの何が喫緊の問題なのか分かりません。何か別の思惑があるからこそ、こういう適当な事を言って煽るのです。

環境問題を政治問題にすり替え、急激な変化を演出する事によって莫大な利益を得る人達がいるのは明らかです。そこを看破し疑問を呈するのが大人の洞察力、感性ではないでしょうか。どこの国、どの企業とは言いませんが、現実にもそういう現象が起きています。もはや火事場泥棒が跳梁跋扈し好き放題しているのが地球の現状であり、人類にとっての大きな問題なのです。

そもそも最もCO2排出量が多い米国や中国は口で言うほど減らしていません。01年比で言えばむしろ増えているのです。自動車だけで言っても日本のCO2削減は世界ダントツです。(下図参照)だと言うのになぜか日本が責められています。日本のマスコミまでが日本はEV化で出遅れたと騒ぐ始末です。

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EV化は単にCO2を減らす一手段に過ぎません。LCA(ライフサイクルアセスメント)で見た場合はハイブリッドカーの方が結果として高効率な場合もある得るのです。つまりトータルで判断すべきなのに一手段のみを強引に押し付けるのは理不尽と言うしかありません。これを政治的圧力と言わずして何と言うのでしょうか。

 EV化はむしろ結果的に地球環境にとっては逆行するという説さえあります。一つは二次電池のリサイクルの目処が立っていない点です。コストが新規製造よりも高くなるので現時点では廃棄される可能性が高いのです。1台につき200〜400キロも積む二次電池が寿命を迎える頃、地球は汚染電池ゴミの山となるのです。年間の自動車生産台数1億台が全てEVに置き換わる未来は果たして持続可能なのでしょうか?

もう一つは途上国の環境問題です。レアアース、レアメタルは主に南米や中国などの途上国で産出されます。では先進国では産出出来ないのかと言うとそんな事はないのです。米などはその気になれば可能なのですが、コストが合わないので途上国から買っていると言います。

ではなぜコストが合わないかと言うとコンプライアンスの問題があるからです。厳しい法律や環境に配慮したのではコストがかかり過ぎて全く採算がとれません。逆に法律や環境、また人権に対するコンプライアンス意識が低い途上国では安く採掘が出来るので重宝されるという訳です。

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採掘のためにガソリンより高い水をふんだんに使うやり方では、汚染だけでなく、地元の水源問題、飲料水問題に発展するのは自明です。その他、子供達の不法就労、某国では少数民族をただ同然で使うなどの人権問題があって、それらの解決の目処は立っていません。

つまりこれは言い方を変えれば環境問題の輸出(公害輸出)なのです。先進国は自国さえ環境が良くなればいいと思い、途上国は人権や環境よりお金が大事と言う訳です。地球全体で見れば汚染ニュートラルとでも言うのでしょうか。(笑)とても持続可能でないし賢明なやり方でもありません。

SDGsは新興宗教にも似た胡散臭さ満載です。そもそも米や中が、なぜやる気がないかを考えなければいけません。答えは簡単で安全保障問題と直結するからです。つまり国力を低下させかねないSDGsには相手の出方を見ながらでないと乗れないのです。

自国を不利にする話に乗る訳がありません。逆に他の国には圧力をかけて、きっちりやらせようとします。割を食うのは日本のような政治力がなく、国民もバカ正直な国です。これを見ても明らかなようにSDGs は環境問題ではなく政治問題なのです。

私は別に環境問題なんてどうでもいいと言っているのではありません。ただ、46億年の歴史を持つ地球はそんなちっぽけな人間の営みとは全く無関係に動いていると言いたいのです。そこに人間が多少関与したとしても、その程度の事は大自然、大宇宙は織り込み済みで、温暖化どころか、そう遠くない将来に氷期も確実にやって来ます。

では食えなくなった極寒の時代には何と言って騒ぐのでしょうか? CO2出せ〜でしょうか。(笑)もちろんCO2に限らず環境は改善すべきですが、それらが将来に及ぼす影響が完全には予測出来ていない現在としては、どこかに過大で致命的な圧力がかからない範囲に止めるべきです。つまり角を矯めて牛を殺すような事があってはならないのです。

日本、いや世界がどこに向かおうとしているのか、それは誰にも分かりません。お天道様に聞くしかないと思われます。

竜頭蛇尾ではありますが、私的ファンタジーストーリーを終わりとさせていただきます。最後まで読んでいただき大変有難うございました。

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2024年8月29日 (木)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(5)

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その(4)からの続きになります。

 続いてトラヴィダ族を制圧したと思われる出雲族ですが、神話からは北イスラエルのダン族の末裔である可能性が高いです。蛇がトーテムである事、亀甲紋が六芒星を内包する点、天孫族に巨大神殿を立てさせた伝説(その証拠の巨大な柱跡が近年発見された)イスラエルの12氏族が10月に集合して団結を確認しあったという伝承も出雲旧暦10月の神在月と似ています。エドム=出雲という見方もあるので、この説もあながち眉唾とは思えないのです。

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興味深いのは、この滅ぼされた出雲族(ダン族)と滅ぼした側の天孫族である扶余(ナフタリ族)とは同じ故郷を持つ北イスラエルの10支族だという事で、それなら言語が方言的違いはあるにせよ基本同じだという理由が理解出来るのです。通ってきたルートによって変化するのはごく自然な事だと思われます。

日本神話でイザナギとイザナミが結ばれる時に淡路島で御柱の周りを回りながら「アナニヤシーエオトメヨ」「アナニヤシーエオトコヨ」とヘブライ語で誓いの言葉を言ったのも、やはりスファラディ系(アジア人)ユダヤ人が最終目的地のミゾホラである日本で国造りをしたからなのです。という事は神話を書いた側もアジア系ユダヤ人という事になり、その構図は今でも変わっていないと思われます。

かなり分かり難くなって来ましたのでまとめます。古代から日本にいた縄文人のY染色体ハプログループはD型であり、弥生時代に渡来して大和国を建国した渡来人の支配層もD型でした。これが意味するのは3万8千年前に別れた別のD型が新たに渡来して来たか、あるいは一度列島に来てその後何らかの理由で列島を離れた一族が色々な場所を経由して戻って来たかのどちらかという事になります。

下の図で弥生人に縄文系遺伝子の率が高いのは渡来人に縄文系遺伝子を持った人が多かった証です。武力的にも圧倒的に優位な弥生人が満足な武器も持たない縄文人に飲み込まれる事は考え難いので、弥生時代に爆発的に増えた人口の大半は稲作技術を持った弥生人由来と思われます。

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そうなると、昔から列島にいた縄文人が弥生時代に渡来系征服王朝の大王になる事は考え難いので、天皇家は初代から弥生系渡来人という事になります。天皇家の行事である大嘗宮の儀で行われる占い、亀卜が5世紀まで日本になかった事もその説を強化します。(亀卜は殷がルーツとされている)

BC660年に即位したと言われる初代神武天皇は記紀の辻褄合わせの産物なので魏に朝貢していた邪馬台国が3世紀に滅亡するまで列島に大王(天皇)らしきは存在しなかったのです。存在したとしても一拠点を支配する部族王に過ぎず、大王と呼べるようなものではありませんでした。正式な初代日本国天皇は7世紀の天武天皇です。それまでの王は大王(おおきみ)と呼ばれ初代大王は3〜4世紀に渡来した崇神天皇だと思われます。

BC660年は推古9年(AD601年、聖徳太子の改革年)から1260年を引いた数字で、それは中国の辛酉革命から来ているのです。そこまで引き伸ばすために欠史八代と言われる天皇(当時はただの王)の在位期間を長くせざるを得ず、妙に長寿の天皇が多くなったというのが真相だと思われます。

余談になりますが渡来人同士の争いの末、皆殺しにされ溝に無造作に埋められていたという、鳥取県の青谷上寺地遺跡で発見された弥生人の大量の骨を分析した結果、女性(ミトコンドリアDNA)は同じ系統が二組しかなく、他の30人余は全くの他人同士だったようです。

分析可能だった4人の男性(Y染色体)の内3人がD型だという結果も驚愕です。2世紀の100名程度の渡来人部落(男女比率5分5分)は今の都会のように出自が多彩な人の集合体だったのです。

日本の土壌は基本的には骨が溶けやすい酸性なので古代人の骨はほとんど残っていません。青谷上寺地の場合は奇跡的に保存状態が良く109人分の骨が発掘されました。時代性を考えると丁度倭国大乱の時期に当たり、何らかの衝突があったものと思われます。10体以上には男女を問わず武器によると思われる殺傷傷があり、しかも骨はバラバラに散らばっていたと言います。

ところで初代神武天皇の諡号はカムヤマト・イワレビコ・スメラミコトと言ってヘブライ語訳では「神の民の上に立つユダヤの初子でサマリアの尊い王」という意味になり、ヤマト(神の民)は大和、スメラからは明らかに古代イスラエル(首都がサマリア)、あるいはシュメールがイメージされます。

つまり記紀に神話を創作した側(最終的には藤原氏)も同じルーツでなければそんな突拍子もない事は書けないので、その時代から日本の支配層は古代イスラエル、あるいはもっと前のシュメールをルーツに持つ事になると思われます。

宗教に関して

 ここまで一気呵成に仮説ファンタジーを展開して来ましたが、この日ユ同祖論は意外にも戦前に信じられて来たようです。書物も沢山あったそうですが、なぜか進駐してきた米軍(GHQ)が焚書にしたと言うのです。GHQは仁徳天皇の御陵(大仙古墳)を無断で発掘したり、阿波の剣山から海人族と思われる顔に刺青のあるミイラ10体を夜陰に乗じて押収した事が当時の徳島新聞(下の画像)に報道されているのですが、古代ユダヤ関係に対する興味の持ち方が半端ありません。

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 まさか失われたソロモンの秘宝、三種の神器であるマナの壺やアロンの杖、またモーセの十戒が刻まれた二枚の石板が入った聖櫃アークが日本にあるとでも思っているのでしょうか。アシュケナジーユダヤが支配する大国アメリカとしては捨ておけなかったのかも知れませんが、まるで映画の世界のようで、嘘みたいです。(笑)

ちなみにシュメールにも三種の神器があって、そちらの方が日本のものに近いようです。剣と鏡、首飾りの組み合わせです。特に剣は日本の場合と伝承が同じで7つの首を持つ竜を退治したと言うのです。日本の三種の神器は熱田神宮に眠ると言われる草薙剣、翡翠の勾玉、伊勢神宮にあるとされる八咫鏡ですが、アークに構造が似た神輿にそれらを入れるという話は聞いた事がありません。

ところで諏訪大社の祭りなどを見ると旧約聖書の内容と妙に一致します。御柱祭はアブラハムの時代に神の依代であるレバノン杉をエルサレムの広場へ運ぶ儀式にそっくりだし、御頭祭も羊と鹿の違いはあるにしても75頭の首を生贄にして神に供えるのは縄文の精神とは相入れず外来の臭いプンプンです。旧約聖書の、アブラハムが神に感謝して羊75頭を捧げた話がルーツとしか思えません。

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 神官が男児(おこう)を神に捧げようと短剣を振り上げた瞬間、神の使いに止められる茶番劇も聖書と同じで神の身勝手さが垣間見え八百万の神を信奉して来た縄文の精神とは程遠い感じがします。

諏訪大社の祭神は武甕槌に追われた出雲族の大国主の第二子、建御名方、その妻八坂刀売神となっていますが、日本にはいなかった羊の代わりとは言え鹿の首を75頭も切って供えるという行為は謎です。出雲族のルーツが前述のようにイスラエルのダン族だとすれば、同じイスラエルでもナフタリ族のトーテムである鹿は生贄の価値しかないと見えます。

想像の域を出ませんが、鹿トーテムの扶余族である武甕槌に滅ぼされた出雲族は扶余に強い恨みを持っていて生贄には意識的に鹿を代用させたのでしょうか。それにしても毎年75頭も首を切るというのは尋常ではありません。現在は剥製に変わっていますが、それでもあまり気持ちの良いものではないのです。

渡来人には、やはり世界基準の荒々しさが目につくのですが、それを持ち込んだのが縄文と同じDNAを持つ渡来人だとしたら、随分変貌した姿で戻ってきたものだと呆れます。

縄文時代に日本を離れた彷徨う縄文人がメソポタミアに辿り着き、幾多の苦難を乗り超え日本に帰還するまでにエジプト、カナン、トルコ、インド・スキタイ、匈奴、扶余等を経ていく過程で首狩族になり、身内で殺し合うだけならまだしも、主君の死に際し、生きた付き人や奴隷数百人を共に埋葬するおぞましい風習まで身につけるのは想像を絶する試練だったようです。人柱という悪しき伝統も割合最近まで残っていたと言います。親切遺伝子が聞いて呆れます。

問題はこれからで、列島に戻った元縄文人はまた昔のように自然を畏敬するアニミズムの世界に戻る事はあるのでしょうか。日本の宗教は縄文時代には八百万の神を尊ぶ素朴なもので、渡来人が色々な神、宗教を持ち込んだのは明らかです。渡来人一番手トラヴィダ人は男女の性器がモチーフのクナト神、アラハバキ神の信奉者でした。東北に今も一部は残っています。

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(この遮光器土偶はアラハバキという説がある。大和朝廷からの弾圧を避けるためにクナトは地蔵に、アラハバキは弁財天になった)

 続いて秦氏系の第一弾、徐福一行が持ち込んだのは道教です。多神教ながらシャーマニズムが主体の宗教で、神の神託を政治に利用し民を惑わすカルト的宗教と言えます。卑弥呼や台与などの巫女的女性(シャーマン)によって祭祀が執り行われました。

そこに割り込んできたのがユダヤ教との親和性が高い物部氏の神道です。例えば諏訪大社の行事である御頭祭や御柱祭は旧約聖書の内容との類似性は極め高いと言えます。ところが諏訪大社の主祭神は建御名方です。建御名方は出雲族であり、出雲族は旧約聖書が完成する前から日本にいました。つまり旧約聖書の内容は知らない筈なので混乱して来ます。そこで注目すべきは当地にある守谷山や物部守屋神社です。

物部氏は恐らくですが、第一次渡来の秦氏の中にいたか、あるいはそれに近い時代に渡来したユダヤ系渡来人と思われます。名前の守屋はイスラエルにもあるモリヤ山由来で、神道(原始ユダヤ教)を守るための戦いで敗れました。旧約聖書を信奉していたからこその結果であると思われるのです。

その物部神道を封じ込めた仏教ですが、当時の政権には唐からの強い圧力があったと思われます。漢字を導入し宗教も導入せざるを得ない程の差し迫った状況が当時の倭国にはあったのではないでしょうか。朝貢国として倭国の安全保障を優先した結果です。

しかしながら空海の時代には仏教は姿を変えていきます。遣唐使として唐で学んで来たのは当時大陸で広く受け入れられた景教(ネストリウス派キリスト教)だったのです。弓月の国出身で原始キリスト教徒であった秦氏の支援を受けて特別待遇だった空海は唐に到着後、自らの意思で大陸を縦断、西安(長安)に赴き恵果和尚の下で、わずか半年で免許皆伝を受けました。

そもそも色々な分野での先端技術を日本にもたらした秦氏は特に宗教活動に熱心で、日本全国に八幡神社と稲荷神社を創建していった話は有名です。一説によると八幡はヤハウェを表し、稲荷はキリストを表すと言います。

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 稲荷(伊奈利)はI.N.R.I、すなわちJesus Nazarenus Rex Iudaeorum の略でナザレのイエス、ユダヤの王の意味なのです。N(ん)の単独での発音がなかった古代日本語ではINRIを「いなり」と発音したようです。そのINRIはイエスが磔になった十字架に罪状として刻まれています。ちなみに稲荷と狐は関係ありません。神仏習合で仏教側から入ったと言われています。

このように日本神道だけでなく、仏教もキリスト教の影響を多大に受けていたという話は実に興味深いです。それらを強力にプロデュースした秦氏の目的は何なのか? 私財を投げ打ってまで平安京構築に尽力したのは実は平安京にエルサレム(平安な都)を投影し、メシア再臨の地としたかったからでしょうか。

空海が作ったと言われる「いろは歌」がありますが、実はそこには重大な秘密が隠されていました。

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 最下段を右から左へ読むと「とかなくてしす」(咎なくて死す)と読めます。イエス・キリストは何の罪(咎)も犯さないのに人々の罪を一身に背負って死罪になりました。次に最上段を右から読むと「いちよらやあゑ」(一張羅ヤハウェ)となりますが、これは最高神ヤハウェ(ヤーウェ、ヤーヴェとも言う)を意味するのです。さらに右上、左上、左下を読めば、い、ゑ、す、となります。

民の救済を第一としたキリスト教と支配層の知的好奇心をくすぐるファッショナブルグッズとも言える当時の仏教ではコンセプトが全く違います。空海が景教を真言密教として日本に導入した目的は正にそこにあったのではないでしょうか。

真言宗の僧侶は袈裟の下で十字を切ると言います。父と子と聖霊の御名においてアーメンです。驚いた事に大日如来、天照大神、キリストは同一の太陽神だったのです。もっと言えばイスラム教のアッラーも根は同じと言われています。空海はまた四国八十八ヶ所巡りでも有名ですが、八十八という数字は特別な意味を持ちます。

例えば日本人の最も重要な食料であるコメは米と書き一文字で八十八とも読めます。さらに米は十とXが重ねられているようにも見えるのです。つまり十字架にX(キリスト)が磔になっている訳です。80はまたヤソとも読め、耶蘇教をイメージさせます。

さらに8X 8は64となり日本の5節句は1月7日の七草から64日毎に設定されています。このように勝利の意味を持つと言われる88は色々なところに使われていて、四国八十八箇所も何かを守る結界を張るために設定、創建されたのではないかと思えて来るのです。

では何を守りたかったのかですが、やはり剣山にあると言われるアークでしょうか?そうなると物部系で祭祀を司る母系の阿刀氏と、父方の秦氏系である佐伯氏の血が流れる空海も旧約聖書の内容や渡来人が阿波で何をしたかを知っていた事になり、生まれながらにして、ある使命を帯びていたのかも知れません。その不思議な霊力、功績を見るにつけ、我々の想像力を遥かに超える存在と言えます。

さて、件の景教(ネストリウス派キリスト教)は偶像崇拝もキリストの母マリアの神性も認めませんでした。それゆえ異端とされたのですが、ローマ国教となったキリスト教カトリックは醜く変貌し、ヤハウェが禁じた偶像崇拝は守られず、為政者や教会側に都合の良い、何でもありの金権宗教に堕落していったのです。

翻って我が日本ですが、無宗教に慣れた彷徨える現代人はどこに心の拠り所を見つけるのでしょうか。カルトにまで堕落した偶像崇拝なのか、縄文の八百万の神信仰に見られるアニミズムなのか、あるいはそれがもし人工物の最たるもの AI なら日本人の未来が明るいとはとても思えないのです。

次回、最終回に続く

 

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2024年8月26日 (月)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その4)

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その(3)からの続きになります。

もちろん、縄文人と渡来人の接触は少なからずあったと思われますが、渡来人が稲作のため平野に住みついたのとは対照的に狩猟採集民族であった縄文人は山でも生活が可能なので棲み分けが出来ていたという説もあるようです。稲作に最後まで馴染めなかった一部の縄文人たちは最終的には「サンカ」となって山に篭り、渡来人との交わりを絶っていったのです。

そこで新たな疑問が浮かび上がります。百済と大和(渡来人同士)はいつからそんな関係になっていたのかという事です。存在が確実な邪馬台国や出雲王朝との関係もよく分かっていません。よく言われる3世紀から5世紀にかけての空白の150年と言われる時代に何があったのか答えは出ていないのです。

つまり邪馬台国が東征してそのまま畿内で新王朝を立ち上げたのか、あるいは畿内にも拠点があったとされる出雲王朝が全国制覇したのかは記紀でも詳らかにされていません。万世一系説が崩れる話は徹底的に隠蔽されたと思われます。

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しかしながら刺青文化で埋葬様式が円墳あるいは甕棺墓(上の画像)主体であった邪馬台国がいきなり畿内で100人以上の殉葬を伴う巨大前方後円墳に変わる事は考えられません。刺青も習慣がなく、扶余系渡来人が見て驚く記述が残されています。出雲も然りで四隅突出型墳丘墓や銅鐸がこの時を境にすっかり消えてしまったのは支配者が入れ替わったと考えるのが自然です。

墳墓だけでなく大陸にしかなかった三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう/上の画像)も3世紀末から百単位で突然増加します。さらに北九州の邪馬台国候補である地域の吉野ヶ里遺跡に代表される環濠集落も3世紀以降は消滅していくのです。

そこで頭に浮かぶのは東大の故江上波夫氏が提唱した「騎馬民族征服王朝説」です。半島から馬に乗った軍団が襲来し、それまでの王朝に成り代わったという仮説です。それなら半島との行き来も活発になり、大きな経済圏としての朝鮮半島南部〜大和圏が成立してもおかしくありません。

恐らく女王卑弥呼の邪馬台国と出雲王朝は時間差こそあれ大陸系騎馬民族によって征服されたのです。群雄割拠とも言える大陸で百千錬磨を経た騎馬軍団の前に、それまで小競り合いはあるものの比較的平和だった倭国はひとたまりもなかったと思われます。ところが江上氏の説は4世紀が舞台です。しかしその場合は巨大古墳や三角縁神獣鏡の出現と時期が合わず、空白の時代が100年以上も存在してしまいます。

江上説は馬が倭国に上陸した痕跡がなかった事で馬具が出土された4世紀となったのかもしれませんが、3世紀の騎馬軍団は裸馬に乗っていたという説が近年有力視されており、木製の鎧も見つかった事で、3世紀の騎馬民族襲来説は俄然信憑性が高まっているのです。倭国大乱も騎馬民族の影響、圧力によって引き起こされたと考えると腑に落ちます。

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(かみつけの里には多くの埴輪が展示されているが、動物、特に馬が多いのは騎馬民族の証か)

ただ騎馬軍団扶余と言えども、その当時100以上もあった言われる倭国の小国全てを力で捩じ伏せるだけの力はなかったようで、二大国の邪馬台国、出雲王国征服(国譲り)後は融和策に傾いたようです。国名も倭(やまと)を受け継ぎ大和としました。先住民の生活習慣も出来る限り尊重し、穏やかな統治を目指したと思われます。大陸の目も意識したのかもしれません。

記紀によると女王卑弥呼をモデルにしたと思われる孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももその姫)は三輪山の大物主(大国主)と恋に落ちたものの、大物主の正体が蛇と知って驚き、転んだ拍子に箸でほと(隠部)をついた事が原因で亡くなったとされています。

それが百襲姫命の墳墓とされる箸墓古墳名の由来となっていますが、騎馬民族が征服した二大国の王をモデルにして珍妙な神話で茶化し、まとめて纏向に祀ってしまえというというのは悪ふざけが過ぎます。滅ぼした王に対する敬意が感じられません。

そもそも卑弥呼にも大国主にも畿内遷都の動機がないのです。鉄(素材)の供給という点でも原料産地の朝鮮南部(伽耶)に近い海側にメリットがあります。それを捨ててまで畿内に移動しなければならない理由を見つけるのは無理があると言えるのではないでしょうか。従って王朝が畿内に移った時点で少なくとも卑弥呼の邪馬大国は滅亡していたと考えるべきです。箸墓の被葬者も卑弥呼ではなく征服者の王と考えると時代性や古墳規模が見合ったものになってくるのです。

その征服者にとって倭国襲来の目的は拠点確保でなく、列島全体を征服するつもりなら出雲や北九州よりも列島の中央部(畿内)は適しています。纒向を拠点にしたのは正にそのためでした。実際にも征服者はその後、四道将軍を北陸、東海、西道、丹波に派遣してまつろわぬ民を帰順させた実績があり、5世紀にもその子孫が群馬他の地域に赴いて支配圏を広げていきました。日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲退治、東国平定なども、その一環と思われます。

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(群馬県上毛野里古墳群 崇神天皇系の豪族である車持氏の古墳らしい。当時の車の意味は馬だそうである)

一説によるとその侵略軍、騎馬民族扶余の王は第10代の崇神天皇で、記紀に書かれた神武東征は、扶余の畿内侵攻をモデルにしたと言うのですが、記紀の、吉備に長期逗留して兵站、兵員の補充を図った話も3世紀の扶余東征をなぞったようです。童話の鬼ヶ島の鬼退治(桃太郎)はここが舞台と思われます。

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(古墳の副葬品であった渡来人の靴は金ピカで縄文的なものとは程遠い感じがする)

因みに記紀では初代神武天皇と第10代崇神天皇の、名に神がつく天皇二人とも「ハツクニシラス・スメラミコト」としています。初めて国を作った天皇が二人もいる事が何度も入れ替わっている王権を暗示しているのではないでしょうか。神武から崇神までの欠史八代が架空ならもっとスッキリしたシナリオになる筈です。モデルが実在したとなると、やはり極端な嘘はつけなかったと見えます。

実はもう一人神のつく天皇がいます。第15代応神天皇ですが、この場合も半島から渡来して来ていきなり大王の座を得ているのです。どう転んでも神功皇后と仲哀天皇の御子とは思えません。にも関わらず記紀にとっては重要な存在だと見えて扱いが丁重です。後に八幡神と習合させて全国に八幡神社を4万社以上も創建するのですから、その血筋の高貴さが窺えます。

一説によると応神天皇は百済の王族で同系の崇神天皇家に婿入りした昆支(コンキ)だと言われています。高句麗に征服される事を恐れた兄の蓋鹵王(コウロオウ)が倭国との同盟を強固にするために462年、加羅系倭国に送り込みました。この時代も倭国は百済から頼りにされていたのです。

その後入れ替わった継体朝も親百済で半島との関係は強化されていきます。4世紀から7世紀にかけて、少なく見積もって100万人の渡来人が来和したとされていますが、大半が百済人(扶余系)ではないかと思われます。

日本と古代イスラエルの関係

北部九州から始まった騎馬軍団扶余による東征の最後は饒速日系出雲族支配の紀伊半島上陸(畿内侵攻)ですが、その前に立ち塞がる大きな島があります。淡路島ですが、そこをスルーしたとは思えません。やはり上陸して東征軍の背後を固めたのではないでしょうか。

その、古事記でも国生み物語で有名な淡路島ですが、不思議な古代遺跡があります。戦前に発見され戦後日の目を見ましたが、どうもイスラエル系の遺跡らしいのです。発掘にはイスラエルのローゼン司教やコーへン駐日大使も立ち会いましたが、やはりイスラエル由来のものという事になったようです。

余談ですが、イスラエルの失われた10支族の調査機関アミシャーブは独自による調査の結果、日本人を古代イスラエル人の祖先と公式に認めています。さらにイスラエルの元軍人で神道の神官であるヨセフ・アイデルバーグ氏は何度も来日し、日本語とヘブライ語の類似点を5000語もリストアップ、文化や道徳感の共通性、旧約聖書と記紀の共通点も明らかにしました。

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 それらを裏付けるように、淡路島の遺跡の近くで発見された指輪には六芒星が描かれたものと、鹿が描かれたものがあります。(上の画像参照)六芒星はダビデの星をイメージし、鹿はイスラエルのナフタリ族のトーテムなので、発掘当時、古代にイスラエルの失われた十支族が上陸したと騒がれました。六芒星の方にはシオンという文字も書かれていると言います。

そこで調べると何と騎馬民族扶余のトーテムは鹿(プヨ=扶余)だと言うのです。これで古代イスラエルから天皇家までの流れが一直線に繋がりました。扶余族は崇神天皇以降の日本の天皇家に大きく関与していると思われます。その証拠に奈良の春日大社や常陸の鹿島神宮には生きた鹿が神の使いとして数多く飼われているのです。

さらに鹿島神宮(茨城県)とゆかりの深い香取神宮(千葉県)の全ての石灯籠(左下画像)には鹿のレリーフが彫られています。神宮と名のつく神社に天皇家と無関係な祭神を祀るとは思えません。トーテムとされた動物も然りです。

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(ちなみに京都御所の清涼殿、天皇の座(右画像)には獅子とユニコーン(狛犬)が置かれている。ユニコーンと鹿は角繋がりか?さらにユニコーンは北イスラエルのヨセフのトーテムなので話は見事に繋がる。)

と言う事は鹿島神宮の主祭神である武甕槌大神(たけみかづちおおかみ)と香取神宮の主祭神、経津主神(ふつぬしのかみ)は天皇家サイドの神という事になります。二神共、神話ではコンビを組んで出雲族を滅ぼした武神とされているので、同ルーツを持つ天孫族征服者として崇拝しているのかもしれません。

それはともかくとして、以前より天皇家はイスラエルのエフライム(族)がルーツだという説がありました。キルギスのマナス叙事詩にもヨセフの子マナス(マナセ)と別れた兄弟(エフライム)が海の方に行って日本人になったとあります。という事はいずれにしても北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされた紀元前8世紀以降に渡来した事になるのです。しかしその場合だと縄文系と言われている今の天皇家のDNAとの関係はどういう事になるのでしょうか。

天皇家のY染色体ハプログループは縄文人と同じD系で、D1a2aと言われています。一方のイスラエルの方もエフライム族とマナセ族がD系だというのですから驚かざるを得ません。後に付く数字と文字は新しい順につけられるそうなので、最初の大文字がルーツの同一性を知る鍵になります。

偶然の一致としてはすごい確率ではないでしょうか。世界で殆ど例を見ないDNAで、イスラエルの調査機関アミシャーブもD型はイスラエル人の中でもマナセ族とエフライム族以外には見当たらないと言っているのです。

アシュケナジーと言われる白人系ユダヤ人に多いのは5万年前にD型から分岐したE型と9世紀以降にハザール王国がユダヤ教に改修してから増えたと言われるコーカソイドのR型やJ型なので貴重なDNAが日本に多く残った事になります。何が貴重かというとDE型はヤップ遺伝子と言われ、またの名を親切遺伝子とも言うのだそうです。和をもって尊しとなす、という聖徳太子の言葉が浮かんできます。その時代、他国でそんな平和な事を真面目に言っている王がいたとは思えません。

実は聖徳太子は蘇我氏系(馬子?)と言う説があります。蘇我馬子を分解すると我蘇る厩戸の子となりキリストを連想させますが、聖徳太子の厩戸皇子とも大きく被るのです。そもそもふざけた名前です。新約聖書を知っている著者が蘇我氏を貶める目的で意識的につけた虚名だと思われます。稲目はともかく、蝦夷(えみし)も侮蔑的だし、入鹿もふざけています。馬子と入鹿でバカになりますから相当な悪意です。

実際には、用明天皇系蘇我氏の輝かしい業績をそのまま残したのでは乙巳の変の正当性が失われるため、色々な仕掛けを記紀に施したと思われます。蝦夷が自害する時に天皇紀や国記に火をつけたと言われているのも意味不明です。クーデター側にとって都合の悪い過去や証拠を隠滅するために燃やし、蝦夷のせいにしたと考えた方が腑に落ちます。

つまり蘇我馬子(聖徳太子)は素晴らしい大王だったのです。架空の聖徳太子は蘇我氏の消せない輝かしい功績を一人のスーパーヒーローの手柄に集約させ消してしまう役割として登場させたと思われます。反面蘇我氏は太子一家を皆殺しにした極悪人である必要がありました。

入鹿が中大兄に切られた場で、蘇我倉山田石川麻呂は入鹿に対し帝(みかど)と言う表現を使っています。これは入鹿が実は鞍作天皇であったことを意味し、また中大兄の義兄に当たる古人大江皇子は「韓人が鞍作を殺した。心が痛い」と言っているのですが、韓人とは中大兄の事だと思われます。古くから倭国にいた百済人も新参百済人に対しては韓人という表現を使っていたようです。いずれにしても人には堂々と言えない、いかに大義のない暴挙であったかが窺えます。

ところで、聖徳太子(馬子?)は大陸騎馬民族、突厥(とっけつ/西トルコ帝国)の達頭(たっとう)がモデルと言う説もあるようです。6世紀に西突厥はハザール王国(アシュケナジー系ユダヤ人の故郷)を支配していた時代もあるので、典型的D型に見える聖徳太子はDから分岐したE型ユダヤ人である可能性も否定出来ないようです。ちょっと混乱して来ます。

話は5世紀に戻ります。応神天皇に率いられて4〜5世紀に渡来した原始キリスト教徒である秦氏の弓月君(ゆづきのきみ)はルーツが秦始皇帝だと自称しています。と言うことはペルシャ経由の南ユダ王国がルーツの可能性が高いのでユダ族かベニヤミン族という事になります。Y染色体遺伝子はE型ではないかと思われるのですが、中国人男性由来のO系統、O2a2b1a1a だという説もあるようです。

ちなみに秦氏の第一陣はBC3世紀の徐福一行ですが、その中にいた天忍穂耳(あめのおしほみみ)のY染色体ハプログループはDだという説があります。彼らは北九州に秦王国を築きました。第二陣の弓月君は大陸の騎馬民族、突厥との親和性が高かったようで秦河勝は聖徳太子(阿毎多利思比孤/厩戸皇子=馬子)をキリストの再臨とでも思ったか強力に支援したと言います。(秦氏の伝承に日本でメシアが再臨するという予言がある)

ところがその甲斐なく政敵に陥れられ一族郎党命を落とす事に、再臨はなかったようです。因みに阿毎多利思比孤(あまたりしひこ)は諡号(亡くなった後の名/聖徳太子)が目一杯の尊称になっている事からも政敵が祟りをすごく恐れていた事が窺えます。

推古天皇も実は存在せず、聖徳太子(馬子?)が天皇(大王)であると不都合な勢力が妃を天皇と偽ったようです。やはり大王殺しは罪が重いのです。同時代の記述がある隋書の倭国伝には、阿毎多利思比孤は後宮に七百人もの側室を持つ日本の王として表されています。これが女性の筈はありません。

その(5)に続く

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2024年2月 7日 (水)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その3)

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その(2)からの続きになります。

その時代を遡ること400年、3世紀の卑弥呼の時代、朝鮮半島は漢や魏に押される形で非漢民族が入れ替わり立ち替わり国を作っていました。多数派は中国北東部の匈奴に代表される騎馬民族です。

その中で高句麗、新羅、百済は殷をルーツに持つ騎馬農耕民族の主体は扶余だと言われています。従って移動ルートの違いで若干の言葉や習慣の違いはあるにせよY染色体遺伝子はかなり偏っている可能性があります。

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(1〜4世紀の朝鮮半島、三韓時代)

もちろん移動の途中で色々なDNAを持つ民族が加わって来るので全て同じという訳にはいきませんが、君主が絶対的な権力を持つこの時代、安全保障上も支配層の多くは同系統であったと思われます。

一説によると大化の改新の立役者、中大兄皇子(後の天智)の父は百済の武王、母も同じく百済の宝皇女と言われています。記紀で彼らは舒明天皇と後の皇極天皇とされていますが、記紀としては天武が日本国を宣言した直後だけに外国の王が日本国の天皇では具合が悪いので、舒明、皇極を創出して辻褄合わせをしたと思われます。  

従って中大兄皇子は古くから日本にいた大王の直系ではなく、蘇我氏が百済から人質として来倭させていた二人の内の一人、百済皇子の扶余豊璋だという説が有力です。大海人皇子と兄弟のようにして蘇我家で育てられたと言います。

それはまた、その時代大和が百済の上位にいたという証しにもなりますが、そんな中、百済人翹岐(ぎょうぎ)が百済武王の跡を継いだ義慈王と奸計を企て、島流しという名目で642年に日本に上陸、滞在中の人質豊璋を担ぎ出して645年に乙巳の変に及ぶというシナリオはあり得ない話ではありません。

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(上の画像は蘇我入鹿が中大兄こと扶余豊璋に切られるシーン、左手前に弓を持っているのが中臣鎌足こと百済人翹岐、彼は弓の名手とされるが阿武山古墳から出た骨にもテニスエルボーの痕跡が見られた、つまり弓エルボーだったのだ。)

つまり朝鮮半島(高句麗、新羅、百済)が勢力争いを繰り広げる時代、大和国の蘇我政権を倒し百済傀儡政権を樹立して、支援させようという魂胆ではなかったかと推察されるのです。案の定、乙巳の変で事実上の大王家だった蘇我氏が滅亡した後の大和国は百済支援に積極的になります。

その島流しの時に同じ船に乗っていたのが亡き武王の妃、宝皇女(後の皇極天皇)とその姪の文姫(額田王)他で、危険な百済から一族で避難して来たのか、あるいはこれから演じる大和での茶番劇に登場する任務?も兼ねての事だったのかは分かりません。

筋書き通り蘇我入鹿を暗殺し乙巳の変は成功しますが、肝心な故郷の百済は660年に唐新羅連合軍の前に壊滅状態となり、小規模な抵抗軍を残すのみとなりました。

その抵抗軍の将軍、鬼室福信は人質豊璋の帰還を大和に要請します。既に百済の傀儡であった大和朝廷はそれに応じ豊璋は大和水軍1万余と共に661年、百済に凱旋、新百済王として唐新羅軍と戦うも、内部での分裂(豊璋による鬼室福信殺害)もあってあえなく敗れ行方不明となります。

ところが今度はちゃっかり中大兄皇子として大和に戻り、朝廷の実力者になっていた大海人皇子の支援を得て百済再興に奔走する事になるのです。

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(唐新羅軍に数の上では圧倒していた大和百済連合軍だったが、にわか仕込みの水軍では勝てなかったようだ。上の画像は当時の軍船を再現したもの、50人程度が乗り組んだと言われる。)

結局663年、白村江での最終戦で大和百済連合軍は壊滅的打撃を受けます。焼け残った600隻にも及ぶ軍船には敗残兵と大量の百済難民を乗せて帰還する事になったのです。

これでも分かるように、ここまで親身になって百済を守ろうとしたのは百済と大和は元々同族であったという事もありますが、当時の大和は百済の強い影響下にありました。

それにしても大和は延べ5万人近い軍派兵と言うのですから、今でも大戦争の部類に入ります。その組織力、機動力、兵站供給力には驚かされるものの、突撃一本槍の戦法では戦い上手とは言えなかったようです。どこかで聞いたような話です。歴史は繰り返されます。

さて、本来ならテロ後は中大兄皇子が蘇我入鹿に代わって大王となってもおかしくないところ、間に孝徳天皇を挟んだり、母の斉明(宝皇女)を立てたり、さらに斉明死後も天智称制を続けたのは大国唐を意識しての事と思われます。

実際、白村江の戦い後は唐から郭務悰が三度、最大2000人の使節団と戦後処理のために来日しているのです。第二次大戦後のGHQ的役割でしょうか。

また国内においても周りの目を警戒する必要がありました。百済皇子がいきなり大和の天皇になったのでは周りが納得しません。周りの、過去を知る不穏分子を排除してから旧来王家の皇子として天皇を名乗ったと思われます。

結局唐が百済や高句麗を滅ぼした後、新羅との戦いを始めたために、幸運にもキャスティング・ボートを握る立場となった大和は唐の軍門に下る事は免れました。

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(唐による侵攻、あるいは戦争責任追求に余程ビビっていたと見えて、烽火・防人を設置、当時の首都、北九州太宰府に短期間で作った水城も大掛かりなものだったようだ。30も造った山城の大半も太宰府周辺に造られたという事は、やはり太宰府が守るべき都だった事を思わせる。)

ちなみに記紀では皇子時代の中大兄皇子を皇子とは表現していません。皇子抜きの中大兄として天皇の直系ではない事をほのめかしているのです。舎人親王の目があるので、あまり露骨な事は出来なかったのかも知れません。天武側に不利な記事も書けなかったと思われます。

もっとも、天武の起こした壬申の乱後に天智系、中臣系は一掃されており、記紀編纂当時は百済系にとって、やりにくい状況があったと思われます。そんな中で藤原不比等が天武天皇崩御後、天武直系の文武天皇に娘の宮子を嫁がせ藤原家を再興させたのは、やはり権謀術数に長けていたからでしょうか。

話はクーデター(乙巳の変)に戻ります。そういう荒技が可能だったのも当時の日本と百済が数百年も前から行き来があり、政権中枢が同系の民族で同じ言語を喋っていたからに他なりません。

現在のような関係ならそんな芸当はあり得ないのです。それを見ても明らかなように当時、扶余語族が支配する朝鮮半島は古代日本語が普通に通じる世界でした。

今のハングルは支配層の大半が半島から大和に移った後、新羅を征服した挹婁、靺鞨、勿吉、エヴェンキなどのツングース系言語が古代日本語を上書きしたと思われるので、日本人との意思疎通は困難です。文化的、情緒面でも大きな違いがあるので誤魔化すことは不可能と思われます。

言語について、万葉集から良い例を紹介します。額田王と大海人皇子(後の天武天皇)との間で交わされた粋で切ない恋歌です。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王)

簡単に説明しますと、王族の、ある野外での集まり(狩や野草摘み)の折、額田王に向かって合図を送る大海人皇子に対し、そんな事をして、夫の天智天皇が見てやきもちを焼いたらどうするの?と言う、そんな感じの歌です。

その時の額田は大海人と別れ、天智と一緒になった直後でした。天智から是非にとの要請に泣く泣く応じ額田を手放した大海人には未練があったと見えます。天智は額田と交換に自分の4人の娘を差し出したと言うのですからよっぽどです。その中には後の持統天皇がいました。

続きがあります。その後の宴の席で今度は大海人が額田に歌を返します。

紫草の 匂える妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも(大海人皇子)

美しい紫草が匂い立つようなあなたが憎くければ、なんで人妻だと言うのに恋焦がれる事などあるでしょうか。その会には天智天皇も同席していたと思えるので、二人とも随分と大胆な歌を詠んだものです。

まあ、当時の感覚では笑い話でやり過ごせるギリギリかもしれません。こう言うユーモアとウィットに富んだ句がすらすらと出てくるのが、この時代の王族なのです。すごく日本的で、文化レベルを超越し文明の香りさえ漂います。

ところが驚くべき事に今でも十分に通じる日本語を華麗に操る二人とも日本列島で生まれ育った所謂日本人ではなく、増して縄文人でもないのです。額田は幼名を文姫と言って百済の武王と新羅の将軍、金庾信の妹との間に生まれた王女でした。

もっとも、生まれたのは鸕野の讃良(うののさらら/後の持統天皇)と同じ畿内の鸕野の邑(うののむら=河内)で、その後百済に渡り10歳の時に新羅王の金春秋に政略結婚で嫁ぎます。その後百済と新羅の関係がこじれ、文姫は百済に返されますが、成人してからは大海人皇子に嫁ぐ事になりました。

その大海人は大陸と大和を股にかける漢人で大化の改新政府の国博士、高向玄理(たかむこのくろまろ)が父という説があります。(義父説もあり)父の都合で高句麗から大和(蘇我氏のもと)に渡来しました。母親は百済武王に嫁ぐ前の宝皇女(後の皇極・斉明天皇)と言うのですから当時は今よりはるかに国際的で恋愛も自由だったようです。

つまり中大兄とは実の兄弟ではなく、大海人は異父兄弟の兄だったのです。従って表向きの皇位継承順位は中大兄皇子より下となります。なぜ中大兄皇子が先に天皇になったのかが分かるというものです。

これでも分かるように百済と大和間には明確な境界などなく、兄弟国のような関係でした。しかも何と古代日本語は縄文人ではなく、元々渡来人が使っていたのです。昔からの謎が解けた瞬間でした。渡来人は縄文人の間に割り込んで来て支配したにも関わらず、先住民の言語(日本語)が残ったというのは納得のいかない話でした。

当時の先住民である縄文人はアイヌ語や隼人語等とも関連が薄い、今では消えてしまった上代東国語に類する言葉を話していたと思われます。フィンランドの言語学者ユハ・ヤンフネンはアルタイ語族仮説に否定的で、類型論的特徴を持つ日本祖語は渡来人が移動の過程で変化したものを列島に持ち込んだと言う仮説を展開しています。

その(4)に続く

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2024年1月29日 (月)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その2)

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その(1)からの続きになります。

日本は少なくとも人類史を俯瞰して見た時に、人種差別撤廃に最も貢献した国と言えるのではないでしょうか。もしあの戦争がなければ地球全体がコロンビアのようになっていた可能性を否定する事は出来ません。

しかしながら人類に貢献と言っても、肝心な日本人には全く貢献しなかったのがあの戦争です。700万人超の徴兵の内230万人が死亡、内140万人が病死、餓死だと言います。民間人も80万人犠牲になりました。その内30万人は海外での死亡です。

戦いで死ぬのなら未だ分からないでもありませんが、それより圧倒的に多い餓死病死は言語道断です。兵站、補給のお粗末さ、計画の甘さは言い訳の出来るレベルではありません。民間人の死亡者数も多すぎます。勝てる見込みがなくなった戦争を長引かせた事が原因であるのは明らかです。

純粋に国思う有能な若者達を特攻攻撃に追い込んだのも日本人に対する重大な犯罪と言えます。3948人もの尊い命が失われていきました。戦勝国側の米が兵士の命を出来る限り守ろうとした姿勢とは対照的だったのです。余りに粗末に扱われた国民の命でしたが、その総括は終わっていません。

東京裁判は戦勝国の一方的な裁判であり、本来やるべき日本政府の日本国民に対する責任は果たしていないのです。そこをきっちりやらない限り歴史は繰り返されます。

実際今回のコロナ騒動でも現政権は満足に治験が終わっていない人類初のタイプであるmRNAワクチンを国民に打たせる、つまり人体実験をするという暴挙に出ました。裏で莫大な利権が動いたのは想像に難くありません。

その接種後の死亡者数は公表されているだけで2千人余りですが、インフルエンザワクチン接種後に死亡する人の数は毎年5千万人中5人前後なので、コロナワクチンでは延べ接種回数が3億9千万回と多いものの、率で見ても圧倒的に多い死亡者を出した事になります。

さらに厚労省が発表している人口動態統計では、2020年に前年比マイナス1万人だった日本人の総死亡者数が21年に6万8千人増、22年は13万人増と、コロナワクチン接種開始後は急増しています。どう見ても異常で戦争レベルの死亡者数だと言うのに政府もマスコミも問題にする気配はなく、それどころか全く無視を続けるという不自然な状態が続いているのです。

これではあの敗戦から何も学んでいないどころか、無責任さは加速しています。残念ながら政府もマスコミも全く信用出来ない国、それが今の日本と言うしかありません。

渡来系弥生人について

 話は古代に遡ります。1万年以上も平和な縄文時代が続いた日本ですが、小波は押し寄せたようです。今から3千年ほど前にインドからアーリア人に押し出される形でトラヴィダ族が巨石文化と稲作を携えて渡来して来ました。クナトの神を崇めるアジア系ですが、インドヨーロッパ語族のヒッタイト人も一部含まれていたかもしれません。製鉄技術(タタラ製鉄)が伝来した事から窺えます。

その人達は平和裡に縄文人と融合したようですが、居住地域が出雲周辺だけでなく東北その他にも散らばっているのを見ると、その後に何か大きな争いがあったのかもしれません。因みに出雲にも東北と同じズーズー弁と言われる訛りがあり、同系の民族だと思われます。大和朝廷に追われた出雲族は北へ北へと移動したという説が有力です。その人達は大和からは蝦夷と蔑まれ東北地方に安住の地を求めます。

その出雲弁に関しては、今の日本語に極めて近い言語だという説があるようです。少なくとも縄文人が話していた言語とは別物と思われます。という事は後から渡来して来る騎馬民族扶余と基本同じ言語で、言わば方言同士の関係だったのかもしれません。これは日本人のルーツを探る上で、かなり大きなヒントです。Photo_20240129131301

ところでインドから渡来したとされるトラヴィダ族ですが、そのまま今で言うところの出雲族になったのかと言うと、それも考え難いのです。なぜなら出雲王朝は紀元前7世紀頃の縄文末期に立ち上がったと言われていますが、平和な世界に王朝は必要ありません。何か団結する必要があるから支配体制が出来るのであって、外圧や争いのない自由な世界に王朝は不要です。

一説によると出雲の大国主は大月(だいげつ)の滇氏(てんし)だと言います。もっとも大月はインドにかなり近いのでトラヴィダ系だとしても不思議はありません。ひょっとして後から渡来して力で王朝を打ち立てたのかもしれませんが、詳しい事は分かっていないのです。

いずれにしても滇氏のトーテムは蛇だと言うので竜蛇族と言われるトラヴィダ族との相性は悪くなかったと思われます。奈良大神神社の主催神、大物主(饒速日)は小さな蛇であったという記紀神話からも出雲族は天津神系(天孫族)ではなく国津神である事は確かなようです。

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(縄文末期には8万人まで減っていた人口が弥生時代に急激に増加したのはトラヴィダ族が稲作を携えて渡来したのが一大要因と思われる。)

 富氏の出雲口伝によると出雲王朝は紀元前3世紀に渡来してきた天孫族に滅ぼされるのですが、最初の天孫族は秦の始皇帝から不老不死の薬草を探すよう命を受けた道教の方士、徐福一行だったようです。二回に分けて数千人規模で渡来してきた徐福一行は人口が数万人規模であった当時としては一大勢力となりました。

様子見の最初は出雲王族との婚姻などで同化策をとったようですが、秦の始皇帝をうまく騙し、弩(いしゆみ)の名手を多く帯同して武力を強化した二回目には侵略者に豹変したようで、日本神話で徐福は素戔嗚(すさのお)という名で表されています。天照大神が手を焼いてお隠れ(死亡の意味)になってしまうのですから余程手に負えない暴れん坊だったのでしょう。

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(日本各地に徐福伝説があり、和歌山には像も作られている)

ただ、素戔嗚が本当に天照大神(卑弥呼?)殺しの犯人かと言えば、時代が4世紀も違うのであり得ません。後に渡来した侵略者を庇う為に素戔嗚という神話上の人物名での悪事にすり替えたと思われます。

これでも窺えるように、ややこしいのは記紀(古事記/日本書紀)の記述です。8世紀に天武天皇の命で作られた天皇史は万葉仮名で書かれた古事記と漢文で書かれた日本書紀に分かれ、古事記が出雲神話を重視し、対外(中国)向けと言われる日本書紀は存在が疑問視されている神功皇后や壬申の乱を重視するなど、どちらも監修したのは藤原不比等だと思われるので明らかな偏りが見られます。

歴史書が勝者都合の歴史物語になっているのは古今東西を問わない決まり事なので、その点は差し引いて見なければなりません。もちろん天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)が日本書記編纂の主要メンバーにいたため、全くの嘘は書けず、数多くの真実や、それに至るヒントが散りばめられているのは救いです。そこを手がかりに探っていくしかないのですが、いかんせん、都合の悪い証拠は極力隠滅され文章による資料も少な過ぎるのです。

ところで藤原不比等ですが、藤原鎌足(元中臣氏)の実子ではないようです。中大兄皇子と組んで起こした乙巳の変の首謀者中臣鎌足は実の父ではないという説が有力です。当時は報償として主君の子を孕った妃を、勲功を挙げた臣下に与える風習があり、天智天皇と鏡女王の子が不比等だと言われているのです。

もしそれが事実なら本人それは知っている筈なので藤原氏と天智天皇側に立った、つまり体制側(百済側)の考えを持って行動していたのは間違いないと思われます。ではその義父である中臣鎌足の出自ですが、天智天皇から授かった大織冠(下の画像の烏帽子)や玉枕などの副葬品で鎌足の墓と思われる阿武山古墳から出た骨を解析した結果は日本に20%前後いるとされるO1b2の大陸系で、なぜか天智天皇の子である筈の不比等も同じだと言います。

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手前の緑色の物は副葬品で、玉枕と言う。日本にはなかった高度なガラス成形技術で作られている。被葬者の出自を窺わせる。因みに大織冠を授かったのは扶余豊璋と藤原鎌足二人のみである。

と言うことは天智天皇もO1b2の可能性が高いという事になります。意外にもD1a2と言われる天皇系の血筋ではなく大陸系渡来人なのです。ちなみにこのY染色体O1b2遺伝子は朝鮮半島にも9%いるとされています。彼の国でもしぶとく淘汰されずに生き残っているようです。

その(3)に続く

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2024年1月24日 (水)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その1)

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 日本人のルーツに関しては諸説あって、侃々諤々と議論がなされてきました。しかしどれもしっくりと来ません。しかしながら最近のDNA解析技術は長足の進化を遂げ、かなり昔の事が詳細まで分かるようになって来たのです。

そうは言ってもサンプル数が極端に少ない人類の起源にまで遡るのは意味がありません。従ってかなり確かだと思われる10万年前頃から話を始めます。今の原型となった人類が、アフリカから世界へ散らばっていったのは10万年前頃という説があります。5万年前にはアジア南部にも到達し3万8千年前には日本列島にも到来したと考えられます。

1万6500年前から新旧の石器時代を含む縄文時代が始まります。その頃の人類ですが、男系が分かるY染色体ハプログループを例に取りますと、A型から始まり古い順にBCDという具合に枝分かれしていきます。最後つまり最新の人類はR型だそうですが、日本に辿り着いたのはその中でもかなり古いD型でした。

但しD型の全てが来た訳でもないようです。あるグループは日本をスルーして北へ上って行ったと言います。幸いにも日本に到達したグループは豊かな自然の恵みを受け狩猟採集民族として数を増やしていきました。

しかし良い事ばかりではありません。気候変動や火山活動で移動を余儀なくされたグループもあり、住みなれた地を離れ東方あるいは大陸へ向かったと言います。

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日本人のDNA

 既にご存知とは思いますが、日本人の男系Y染色体、D型遺伝子は世界広しと言えど、チベットやバイカル湖周辺、あるいはアンダマン諸島にしか残されていないと言います。さらに、これらの遺伝子の元が日本到達前のものなのか、あるいは到達後に脱出したものなのかはよく分かっていないのです。

参考までに興味深い例を紹介します。現在の南米コロンビア人の遺伝子ですが、Y染色体を調べると男子の全てがスペイン人のものだと言うのです。一方女性は、母系が辿れるミトコンドリアの解析では全てがモンゴロイド、つまり原住民のものでした。

これはスペイン人がコロンビアに上陸した瞬間からコロンビア人男性の生殖能力が失われていった事を意味します。女性にとってはスペイン人の男性しか選べないという不自然な状態に陥ったのです。つまり自国の女性を帯同しなかったスペイン人はコロンビア人男性を尽く排除したのです。

逆の例もあります。東ヨーロッパ人のY染色体にはモンゴル人のものが一部に存在し、ミトコンドリアでは全てコーカソイド(白人原住民)のものでした。蒙古が東ヨーロッパにまで侵攻し、一時期支配したという証拠ではないでしょうか。

翻って我が日本はと言うと、縄文人のD型遺伝子は地方によってもばらつきはあるものの、全体では40%を占めます。他は大陸からの渡来系と思われるO型二系統が50%で、残りはDよりも古いCが北(アイヌ)に少々と少数民族系が何種類かあるようです。これを見る限り日本が一つの民族によって強権的に支配された痕跡は見当たりません。(下図参照)

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世界に例を見ない平和な地域が日本列島なのです。では対外的にはどうでしょうか?日本がどこかの国に攻め入って強権支配したかどうかは相手国のDNAを調べれば詳らかになります。

かつて日本が統治した朝鮮半島や台湾で日本人のDNAが激増したかと言うと、全くそんな事はありません。(下図参照)むしろ朝鮮半島の場合、現地人人口は統治時代の35年間で1300万人から2500万人へほぼ倍に増えました。

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さらに李王家の末裔、李垠王世子(リ・ギン)に日本の皇室から梨本宮方子女王を嫁がせるなど、手厚い融和策をとったことは意外に知られていません。

日本による外国統治に関して当時の英国BBCは欧米のようなColonization ではなく Annexationであると報じました。つまり植民地ではなく併合だったと言っているのです。

事実日本政府は現地人を日本人とし、日本人と同じ待遇を与えたのですから、欧米の植民地支配からは程遠いものがあります。しかもその併合は米英も公式に認めたものだったのです。

これは、人類は皆一つ屋根の下という八紘一宇の理念がベースにあり、また大東亜共栄圏の考え方にも合致します。つまりアジア人で団結して欧米列強の植民地主義に対抗しようという日本の願いは昭和天皇の開戦の詔勅を見ても明らかなのです。

国際連盟で日本が提起した人種差別廃止案は白人諸国によって廃案とされました。さらにABCD包囲網で日本締め付けが強化されていきます。そういう状況下で日本の選択すべき道は多くはなかったのです。

結果は無残な敗戦となりましたが、ニューヨーク・タイムス東京支局長の故ヘンリー・S・ストークス氏は「1941年、日本はアジアで大英帝国を瞬く間に滅亡させてしまった。非白人が、白人がアジアで展開した植民地支配を覆したのだ。このため日本人に対する憎悪は、戦後も長く続いた。」

また「世界史上、日本ほど人類に貢献した国はない。日本はアジアの希望の光だった。」と賞賛しました。その言葉を裏付けるように戦後植民地支配されていたアジア諸国は尽く独立して行ったのです。

日本軍が追い出し、日本の敗戦で戻ってきた欧米宗主国と元植民地の間で戦争も起きましたが、日本の戦いぶりを見て、アジア人でも十分に戦える事を知った現地人は死に物狂いで独立戦争を勝ち取ったのです。もちろん日本軍が現地人に軍事訓練を施し武器の供与もしていなければ、この奇跡は起きなかったでしょう。

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(インドネシアのカリバタ英雄墓地、1000人も残留して共にオランダと戦ったと言われる多くの日本兵も眠っている)
その2へ続く

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2023年12月25日 (月)

メリークリスマス23

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Xmas-23

早いものでもうクリスマスシーズンがやってまいりました。今年のテーマは「Dの帰還」です。

日本列島にはまず縄文人が先住民として住んでおり、そこに見ず知らずの弥生人が押し寄せ、縄文人を南北に追いやりながらも融和し混血していったというのがこれまでの定説である二重構造モデルでした。

しかし、ではなぜ渡来人(弥生人)が押しのけたはずの先住民の言語、古代日本語が共通言語になったのでしょうか。世界の例では後から入って来た力の強い者の言語がその国の言語になっています。

日本の場合、人口が数万人規模でしかない列島に大陸で揉まれた技術も知恵もある人達が何度も渡来して来たのです。その集団が平和で戦いを知らない縄文人に屈するというのはおかしな話ではないでしょうか。私にはそこがず〜っと疑問でした。

ところで最近はD N Aの解析技術が進歩して人類の移動や混血の具合など色々な事が分かるようになったと言います。それによるとアフリカを離れた初期の人類は世界に散らばり北東アジアにも3万8千年くらい前には到達したそうです。

その時に日本列島まで辿り着いた人々は男性が持つY染色体ハプログループで言うと四番目に古いD型でした。(Aから始まり最後がR型)但し同じDでも日本だけでなくアジアの北の方まで上がっていったグループもいたそうです。

大きく時は流れ今から3千年前頃には、初?の渡来人がやって来ます。しばらく経って紀元前3世紀にも大陸からある知的集団が到来しました。ご丁寧に二度に渡ってです。その後は五月雨式に渡来ラッシュが続くのですが、秦氏の集団渡来は有名で日本が大きく変わったきっかけになったと言われています。

そこで調べてみると、卑弥呼と入れ替わるように3世紀末には巨大前方後円墳が現れ、続いて馬が出現し神社が増え、大陸との行き来も活発になっていきました。人口が爆発的に増えて種々の文化が花開き、7世紀にはあの香り高い歌集である万葉集が編纂されます。

弥生時代後期から飛鳥時代にかけて急速に列島が動き始めたのです。この流れを見る限り、どう考えても渡来人が日本を変えていったとしか思えません。

あまりにも縄文人の存在感がないのです。南北に押しやられた彼らはそこでひっそりと暮らしていたのでしょうか。しかしながら最近の研究だと本州にも30〜40%の縄文人由来のD型の男性がいると言うのです。

それは非常に妙な話です。ハイテク渡来人に混じって旧来の土着縄文人が存在感を発揮したと言うのはあり得ないとまでは言えないものの、二重構造モデルからはイメージ出来ないし、世界の常識ともかけ離れています。何があったのでしょうか?

結論を急ぎましょう。ごく最近の研究によると、あるD型グループは世界を半周して最後に日本に集結したと言うのです。そのせいかチベットやバイカル湖周辺にもDは散見されます。アンダマン諸島にもいるのですが、これは別系統かもしれません。

それが3万8千年前に別れたDグループなのか、あるいは日本列島到達後に火山活動や気候変動で住めなくなり西に移動したグループなのかは分かりませんが、とにかく渡来人の中にD型がかなりな割合で混じっていた事は確かなのです。

これでやっと長年の課題だった私の疑問が解けました。天皇家がD型と言われるのも本州にDが多いのも渡来人由来のものだったとすれば、言葉の謎も含め全て氷解するのです。そもそも縄文系渡来人の言語は長い年月世界を巡る間に全く違ったものになっていました。

一方の縄文語は恐らくアイヌ語や琉球語に近い言語であって大きくは変化しなかったと思われます。つまり言語だけでなく国家体制も渡来人が持ち込んだと考えれば、万世一系はともかくとしても、D型が長い期間守られて来たという天皇家伝承は理解出来るのです。

しかしながら日本の場合は人種の坩堝であり、D型だけでなく大陸由来のO型2系統他、もっと古いCや新しい系統も数多く残っており、南米のような特定のD N Aが独占した痕跡はありません。つまり結果的に見て稀に見る平和な国、共存共栄の国が日本なのです。

そんな事をぼんやりと考えながら巫女サンタ、虎衣やよい嬢のそりは縄文人が住む縄文村へと急ぎます。物価の高い昨今、安くて良いプレゼントを弥生町で探すのに手間取り夜明け近くになっていたのです。

「弥生町の長老たちはほんまにがめついわ〜。縄文村のデコピン君は人懐っこいし、ええ人やったんよ。プレゼントの97%は10年後でええなんて、信じられんわ。」巫女サンタが見つめる雪の大和はやはりまほろば、おおらかで美しくも、なぜかちょっぴりやるせない空気に満ちていました。

ロマン溢れる古代史、本当に興味が尽きません。 今年一年お世話になりました。また来年もよろしくお願い致します。皆様に良い年が訪れますように。


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2023年1月 1日 (日)

明けましておめでとうございます。

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Hny2023


皆様、明けましておめでとうございます。

早速ですが今年のイラストのテーマは「一難去ってまた一難」です。

 昨年暮れのデリバリーでは、あわや遭難という危機から船側の誘導に切り替えてもらい事なきを得た美女サンタでしたが、帰社早々次のミッションが待ち受けていました。「休暇取りたいのにかなわんな〜」とぼやく美女サンタにデリバリー責任者が持ち出した案件はかなりハードなもののようです。

 彼によると、元旦に近江の国で初日の出を拝む会が地元の有力政治家によって催されるというのです。それも何と豪華クルーザーからというのですからこの時節としては剛気なものです。そこでゲストに対するサプライズとして年賀プレゼントを空から届けるシナリオと言うではありませんか。え〜またそれかい、嫌な予感が胸をよぎらざるを得ません。

 「これひょっとして、サンタ役の私からなので買収にはならない、とでも言うつもりなのかな?」何か釈然としない今回のミッションですが、琵琶湖の初日も悪くないと気を取り直し、除夜の鐘もそこそこに東京を出発しました。

 近江には5時少し前に到着、未だ初日は拝めませんが、そこには何とも言えないオレンジ色の光景が広がっていたのです。「いや〜受けてよかったわ。こんな景色は滅多に見られへん」と喜ぶサンタの前に一隻の豪華クルーザーが・・・ところがこの船、なんとヘリポート、いや、ドローンポートがないのです。

 やはり嫌な予感は当たりました。途方に暮れるサンタがとった行動とは、ハードランディングなのか、或いは空からばら撒くのか??これを書いているのは12月末なので来年の事は私にも分かりません。(笑)

 今回の絵は昨年8月に旅行で訪れた琵琶湖のホテルから撮った写真をベースに、それに手書きのイラストを乗せてカラー調整したものです。船のカラー調整には手間取りましたが、何とか違和感のないものに仕上がったのではないかと思っております。

 申し遅れましたが、昨年は有り難うございました。今年もよろしくお願い致します。

 



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2022年12月25日 (日)

メリークリスマス22

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Xmas-card-22


今年のテーマは「美女サンタ北極へ飛ぶ」です。

 昨年自分たちの主張を通し、仕事もきっちり終えて無事に越年した美女サンタたちですが、今年はまた難問がふりかかって来たのです。召集に応じサンタワールドに集結した美女サンタたちには思いもしないミッションが待っていました。

 その内容は「北極海に行って、そこで実験をしているグループにプレゼントを配布せよ」と言うものです。「え〜何やて、北極海?そんなアホな!!」仲間からは不満の声が上がりました。そりゃそうです。昨年のようなバイクタイプのドローンでは寒くてたまりません。

 そこでリーダーが先頭に立って条件闘争に入りました。まずドローンをオープンタイプではなくクローズドタイプで暖房付きに交換する事! 次に手当を仕事に見合った金額に上げてもらいたい、と言うもっともな内容です。

 欧州や米では8〜10%以上ものインフレに襲われ、日本にもじわじわとその波は押し寄せています。このままでは越年もままなりません。美女サンタたちにとってもインフレは切実な問題だったのです。

 それを聞いたワールド長は呆気なく「ええで、言う通りにしたってや!」と部下に指示したと言います。リーダーはその適当さに不吉な予感はしたものの、取り敢えず要求が通ったことを評価してスタンバイする事にしました。

 さて、その北極海での実験ですが、何と航行しながら海水を分解して水素を取り出し、それを燃料としてICE(内燃機関)を動かすのだと言います。さらにはその水素をモーターや電装品のための電力にも換える燃料電池も搭載すると言うのですから笑ってしまう程すごい話です。

 究極のゼロエミッション・ハイブリッドクルーザーと言って良いでしょう。しかもその試作船はすでに完成していて、長期テストに入っていると言うではありませんか。つまり、それが持続可能かどうかの耐久テストを最も条件が厳しい極寒の海でしている訳です。実験船は既にノンストップ走行2ヶ月目に入っていて、なお順調だと報告されています。

 それを聞いた美女サンタたちから喜びの歓声があがりました。地球のエネルギー問題が解決するかどうかという一大プロジェクトに間接的にでも参加出来るのは光栄な事です。まずはブラボー!!と言いながらこの大逆転劇に祝杯をあげるしかありません。

 しかし、その裏でニヤリと笑った男がいました。「ふふ、来年は増税してその分倍にして取り返してやるで」そうです。キッシーワールド長です。この男は何を考えているのか、いないのか?国民の幸せより税金を取る事にしか興味がないように見えます。

 経済がまるで分かっていないこの男は、それが持続可能社会への道とでも考えているのかもしれません。いや、それとも単なる操り人形に過ぎないのか?そう勘繰られても仕方がないくらい誠意や覇気が感じられないのです。

 そう言う実しやかな噂話が聞こえてくる寒〜い年の瀬は、例年になくどんよりとしています。それは近未来を予感させるような、させないような、いずれにしても視界の利かないカオスとも言える時代に突入してしまった感は否めません。知らんけど・・・(笑)

 今年一年お世話になりました。また来年もよろしくお願い致します。皆様に良い年が訪れますように。



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2022年12月12日 (月)

円安で国が滅ぶと騒ぐ愚かな人達(後編)

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 前回からの続きになります。

 米も同じく対外純負債が大きく、その額は20兆ドル以上にもなります。これくらい金額が大きいと、いくらでもドルが刷れるとは言え通貨安はデメリットも桁違いになるのは自明です。そういう事情もあって国内の景気とは無関係に金利を上げたりする訳で、ドル高にしなければならない必要性に迫られるのです。

しかしながら、米ドルが基軸通貨になれたのも、この借金体質が大きくものを言っています。それだけドルを刷って借金しまくっても何とか出来るだけの政治力とファンダメンタルズがあるという訳です。

反対に日本は経常黒字国なので円を大量に刷る必要には迫られません。払っても、払っても戻ってくるのです。(笑)これではハードカレンシー(国際決済通貨)にはなれても基軸通貨国にはなれないのです。またなる必要もありません。

ただ、価値ある物(通貨)は少なければ少ないほど価値が上がるので、円安には限界があります。長い目で見れば円高基調に戻っていくのは必定です。それを邪魔する要因は潰さなければなりませんが、マスコミ、似非エコノミストに加えて政府が海外の大国の傀儡なので、そこが最大のネックと言えるでしょう。

そもそも持ってもいないものは売れません。円を保有している外国人がどれくらい存在するのかは知りませんが、海外に流出している円の量自体が非常に少ないので円売りには限界があります。と言うか既に今の円安が異常なくらいで、すぐに円高基調に戻ると思われます。

円安が続く要因があるとすれば、それは日本人が日本を売る時です。手持ちの円をドルに換えて、中国の金持ちのように海外に移住するならそういう事もあり得るでしょう。流石にそこまで愚かな人は極々少ないと思われます。

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(バブル崩壊までは10%前後のマネーストックの増加率だったが、崩壊後は2%程度に落ちた。経済成長率はこのMS増加率に比例する。90年以降金融に関するルールが色々変更され、民間企業の借り入れが難しくなったのが、MSが伸びない最大要因である。

日銀による窓口指導も廃止されたが、ここにも政府の姿勢が表れている。これによって返済が借入れを上回るバランスシート不況が起き、マネーストックの伸びは政府発行の国債に頼るしかなくなった。全ては年次改革要望書等の外圧によるものである。

マネーストックとは簡単に言うと、その国の総預金残高プラス現金である。

マネーストックが増える要因

1)政府が国債を発行し、公共投資をする、あるいは国民に対して直接給付金などで支払う場合

2)金融機関の民間に対する貸出額が返済額を上回った場合

3)経常収支の黒字が増えた場合

為替の変動要因

基本的には通貨量の差で決まる。多い方、つまり二国間の貿易や金利差等で、支払額が増えた方(売られた方)が通貨安となる。

現状はセオリー通りではなく過剰な円安状態が続いている。物価等を加味した実質実行為替レートが60を切っているのは異常と言うしかない。1ドル80円以下が実力と言える。青いラインが実質実効為替レート、赤線がよく目にする名目為替レート)

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(このグラフを見れば今の円安なんて、騒ぐほどの事ではないとすぐに分かる。米による必死の圧力、内政干渉にも関わらず、円はドルに対し常に強い立場を維持して来た。そんな国は日本以外には見当たらない。逆に、通貨安が悪いと言うなら、このグラフは米側から見ると屈辱の歴史でしかない。

そこに日本人は気づくべきだ。気付かせないためには日本衰退説が必要で、マスコミや御用学者を使ったプロパガンダが常態化している。安倍さんが亡くなった今は戦後レジームの脱却から遠のくばかりである。)

因みに日本を売らなければいけない程衰退している国だと思っている人には左のグラフを紹介します。

生産年齢人口一人当たりで見た場合の実質経済成長率は実はアメリカより10%以上も上なのです。つまりこれが意味する事は国民一人一人のポテンシャルは高い状態を維持しているという事です。名目や実態を反映していない為替レートで比較する意味はありません。

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2022年12月 5日 (月)

円安で国が滅ぶと騒ぐ愚かな人達(前編)

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 随分と間が空いてしまいました。世の中混沌として先が見えないと言うのもありますが、ちょっと重荷になってきたと言う事実もあります。読者の方のコメント投稿がなければ、もう少しサボっていたかもしれません。(笑)

さて、このところ円安がひと段落し静かになりましたが、ちょっと前にはマスコミや、ポジショントークに余念がない似非エコノミストがこの時とばかりに「日本が売られ続ける」と大騒ぎをしていました。その原因は日本のファンダメンタルズが弱くなった、あるいは貿易赤字が慢性化した、財政赤字も世界最悪だ、などがあって悲観論で占められているのです。

おかしいですね、昔1ドル80円を割るような超円高の時には円高で日本が滅びると言っていたのは誰でしたっけ? そう言えば紫BBAも1ドル50円になるとか言って煽っていましたね。

とにかく日本ダメ論さえ展開すれば新聞は売れるし、テレビの視聴率も上がるようです。日本人自体も悲観論が大好きな国民性ではないかと思えます。では実態はどうなのでしょうか。まず今回の円安の原因ですが、素人なりに次のような分析をしてみました。

1)基本的にはアベノミクス以来の日銀の金融緩和策は継続されており、円はドルより相対的に過剰な状態が続いていると言えます。円安傾向は元々あったのです。

2)米がこのところ利上げをやっていて、しかもそのペースが過去よりもかなり早いです。つまり米自身がドル高を容認しているのです。(下の表)

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3)それに便乗した投機筋(海外のヘッジファンド)が円売りを仕掛けているので、金利差以上に増幅されたと思われます。

4)日銀は雀の涙ほどのドル売り介入をしたものの、金利を上げるつもりが全くない事を見透かされています。禿鷹ファンドが闊歩する要因だと思われます。

その他の要因は見当たりません。ファンダメンタルズは特に変わっていないし、貿易赤字はさほどではなく、財政赤字も巨額のままで微増を続けています。従ってそれらが原因でないのは自明です。さらに言えば最近の貿易赤字は円安要因ではありますが、日本は何十年も経常黒字国です。

海外に持つ生産拠点や金融資産などから入る所得収支は年に20兆円もあって貿易赤字を遥かに上回ります。従って通常であれば円高になるのを日銀が金融緩和で抑えているというのがアベノミクス以降の実態なのです。

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(日本はアベノミクスでマネタリーベース「MB」を欧米と変わらない規模に増やして来たが、今回コロナ禍で米が大量にMBを増やしている。昨年の春頃には逆転しているのにも関わらず円安に動いているのは投機筋の存在以外は考えにくい。EUもMBを米以上に増やしているが、こちらは対ドルに比べ円安が顕著ではない。普通なら円高になる。)

90%以上を国内で賄っている財政赤字に関してはもっと根拠がないと言わざるを得ません。この件に関しては全く間違った認識が共有されているようですが、日本は国全体で見た場合には世界一の黒字国なのです。資産から負債を引いた額が、国内だけで言えば520兆円(21年末の数字、3.6兆ドルを今のレートで計算した場合)の黒字になります。

それは逆に言えば対外純資産が520兆円もあるという事を意味し、日本のグローバル企業は円安でウハウハ状態なのです。当然好決算という事になります。事実企業の480兆円もある内部留保の半分以上を占める外貨分はどんどん膨らんでいるのです。膨大な利益が蓄えられています。

それは逆に言えば政府負債に皺寄せが行っている事にもなり、政府負債を黒字化するには家計と企業の黒字を減らさなければならないのです。どちらが国民にとって好ましいかは明らかではないでしょうか。(次のグラフ参照)

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(コロナ禍の財政支出で家計の金融資産は爆上がりした。ただ供給側がコロナ規制で棄損しているので経済成長にはつながり難い。)

尤も、財政赤字は国債を日銀が買う事で事実上は縮小されます。政府と日銀は国の機関なので、連結決算をすればほぼプラマイゼロになるのです。基本的に日銀は無限に国債を買い入れる権利、能力を有しています。

世界で最も価値のある日本国債を担保にして円が発行出来るのですから、どう考えても最強なのです。こういう事実をマスコミは知りません。日本国民も嘘を教えられています。

では一方の懸念材料ですが、確かに輸入品の物価は上がるでしょう。資源類に限って言えば輸入額が毎年15兆円ほどなので1ドル200円にでもなれば30兆円近い数字になります。

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しかしそれでも値上がり分のGDPに占める割合は3%でしかないのです。つまりコストプッシュインフレと言っても高々3%で大した数字にはなりようがありません。消費税を円安期間だけでもその3%分(15兆円程)下げれば済む話です。

それもトータルで見た場合には経常収支の黒字分で相殺され、お釣りがたんまり来るという訳です。年間20兆円もある経常黒字は円安で30兆円にも40兆円にも増えるのですが、それでもあなたは円安が日本をダメにすると思いますか?

実際には世界で円安だけが進んでいる訳ではなく、米ドルの独歩高という側面があります。対ユーロや対ポンドで見た場合、大して変動がない訳ですから、円安だけを取り上げて騒ぐのはバカか、バカでないとすれば悪意があるとしか思えません。

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(ユーロやポンドを見ると日本だけが狙われた訳ではない事が分かる。)

つまり為替はプラスマイナスがあるので日本のような純資産国には返ってメリットの方が多いのです。もちろんデメリットの方が多い国もあります。例えばポンドは円と同じように通貨安ですが、こちらは死活問題になりかねません。

かつて七つの海を支配した英国は世界に膨大な資産を持つ代わりに、それ以上の負債を負っているのです。プラスマイナスすれば純負債が莫大な数字になります。必然的に企業の業績は悪くなるという訳です。

長くなりましたので次回に続くとさせていただきます。



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2022年7月 8日 (金)

百済系渡来人による日本乗っ取り(後編)

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---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---

 
 前回からの続きになります。

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(余程ビビっていたと見えて、短期間に作った水城は大掛かりなものだったようだ。下の画像が現在残る水城跡)

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ところで、この防衛施設が完成したのは記紀によると664年とされていますが、それは妙です。敗戦後に工事を始めたのでは、とてもじゃないけど1年では不可能です。

これより規模が遥かに小さい大山古墳でさえ大林組の試算によると二千人の作業者で15年かかると言います。しかも太宰府の周囲に51キロにも及ぶ大城壁(土塁?)まで出来ているのですから、1年や2年の工期でないのは自明です。

常識的に考えれば敗戦の前に完成していたと考えるべきです。敗戦後は唐から戦後処理のための使者郭務悰(WW2で言えばマッカーサー?)が二千人と言われる占領部隊(GHQ?)を引き連れて太宰府に来ており、その眼前で防衛施設が作れる筈もないのです。

従って記紀の記述は信用出来ず、7年のずれがあると言う最近の解釈が信憑性を増します。記紀はこの7年に何かを隠したのです。天皇の出自を誤魔化すためか?

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(万里の長城には遠く及ばないが、周囲に城壁をめぐらせたという事実は何を物語る?NHKの正月番組ブラタモリで取り上げた太宰府の羅城。)

さらに、なぜ地方都市の一つでしかない太宰府に、かくも大掛かりな防衛施設を築いたのかというのも疑問です。京都や奈良にはその形跡がないのにも拘らずです。と言う事は、実は太宰府は日本の首都だったのかもしれません。天智天皇の居城はそこにあって采配を振るっていたのではないでしょうか。

さて、唐からの戦争責任を問われる張本人の天智天皇ですが、667年に近江に逃れたり忙しい日々を送っていたと言います。結局は責任を旧大和国になすりつけたか、上手くかわす事が出来たようです。

前述のように669年には落馬で治療中の中臣鎌足を見舞い、大織冠と藤原姓を授けているのです。大織冠は自分(豊璋)にも与えていますが、中大兄皇子=豊璋とされるのを避ける方便だったのかもしれません。

話は遡りますが、中臣姓、藤原姓というのは記紀には出てきません。中臣という姓はある調査によると、元々は卜部という神職についており皇室の政治に関与する地位にあったと言います。

興味深いのは5世紀に大陸から亀卜(占い)をもたらした帰化人を国造(クニノミヤツコ)中臣氏の成立と共に支配下に置いたと言う「中臣本系帳」の記述です。

そうなると邪推かもしれませんが、背乗りの可能性が頭をもたげます。改竄可能な立場にあった記紀に中臣家を大化の改新まで登場させないのは、書くべき事が何もなかったからなのかもしれません。大化の改新以降の立場を有利にする改竄は可能でも、ない歴史をゼロから作る事は難しいのです。

そこで気になるのが大陸から伝来したと言う、亀の甲羅で占いをする「亀卜」です。大陸とはこの場合おそらく朝鮮半島を指します。それはそれまでの日本になかった事を意味するし、霊媒師として故人や神の声を代弁していたと言う卑弥呼の鬼道などとも趣を異にします。

いやいやこれはまた驚きの新発見です。現在の天皇家が行う皇位継承の一大行事である大嘗祭用の供物の米を選ぶのは亀卜による、とされています。しかし、その亀卜は5世紀までは日本になかったのです。それまでの天皇家の占いは亀ではなく鹿などの動物の骨を使っていたと言います。

と言う事は、天皇家のルーツはそれ以前日本に存在していた天皇家とは別系統かもしれないのです。これはまたすごい話ではないでしょうか。亀卜のルーツは秦の前身と言われる殷だそうですが、殷の末裔と思われる徐福の、鬼道ベースの道教とは別物のようだし、謎が深まります。

いずれにしても今回はっきりしたのは百済系渡来人によって645年に大和は乗っ取られたという事実です。ただ、天智天皇崩御後壬申の乱で蘇我氏(天武天皇)側が捲土重来を果たし、皇位を取り戻したのも確かなので、百済の血統が今日にまで至っているかどうかは不明です。

一つ言える事は、一時的に没落した藤原氏が文武天皇に不比等の長女(宮子)を嫁がせる事により重要なポジションに返り咲いているので、百済系が朝廷の敵として全て排除された訳ではないようです。むしろ上手く大和国、いや日本国に溶け込んでいったのです。天武天皇としてもその方が好都合だったのでしょうか。

だからこそ、その後血で血を洗う皇位継承者争いが後を絶たなかったのです。祟りを恐れた勝者側によって日本国中に建立された鎮魂のための神社がそれを物語ります。

もちろん後ろで糸を引いていたのは藤原氏で、藤原京(学術用語)に藤原宮(皇居)まで作るのですから、大したものです。その後ろめたい気持ちがあるから、自分の墓は目立たないようにしたのかもしれません。

まとめ

1)藤原鎌足は百済からの渡来人で、同じく百済王族の豊璋と組んで日本でクーデターを起こし、大和を乗っ取った。(大化の改新)その後大海人皇子の逆襲に遭うが、この事を壬申の乱と乗っ取った側が言うのはおかしい。

乱とは秩序破壊あるいは反逆を意味するので、正当性のある側が起こした原状回復の戦いは乱ではなく聖戦、あるいは平定、鎮圧である。不比等は記紀で乱という言葉を使ったが、自分達に正当性があると言いたかったのだろう。

2)今の天皇家は大嘗祭などで亀卜を行なっていると言うが、それが日本に入ったのは5世紀である。と言う事は神武天皇以降5世紀までの天皇の血統と同じである可能性は低いと言わざるを得ない。

3)7世紀の大和国の首都は東アジア最大の羅城と言われた太宰府であり、北九州が大和国の中心であった事が窺える。水城の成立年代を調べるために行なわれた三層の敷粗朶(シキソダ)の放射性同位体(C14)によると、240年、430年、660年が検出されており、卑弥呼の時代に既に水城が存在していたようだ。660年は補強工事だったかと思われる。

4)水城の成立年が意味するのは邪馬台国はやはり北九州にあったという事で、太宰府はその後も継続して日本の中心だった可能性が高い。3世紀に「倭は国のまほろば」と詠んだ日本武尊(ヤマトタケル)が見た倭の風景は畿内ではなかった。「たたなずく青垣、山籠れる 倭し麗し」と続く文言からはどちらとも取れる。

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2022年7月 4日 (月)

百済系渡来人による日本乗っ取り(前編)

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---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---

 過去記事「天皇家の血統(万世一系は本当か?」の中で「中大兄皇子こと扶余勇、中臣鎌足こと扶余豊璋が645年に大化の改新、乙巳の変を起こし、蘇我氏や聖徳太子一族を滅ぼしました。」と書きましたが、実際は扶余豊璋の方が中大兄皇子だったかもしれません。その場合中臣鎌足は豊璋とは直接血の繋がりのない百済王族「翹岐」という事になるようです。

先日ネットで、たまたま帝塚山大学考古学研究所が作った動画を観ていると阿武山古墳の話をしていました。1934年に京都大学によって偶然発見されたこの古墳は、天皇の古墳とは違って、規模も小さく目立たなくする事が目的かと思えるほどの地味なものだったようです。

大きな石で囲まれた墓室の中には黒い漆塗りの棺があり、中の様子も確認されたのですが、111日後に内務省の指示で元の状態に戻されたと言います。戦前の話ですから色々不都合な事があったのかもしれません。

時は半世紀近く流れて1982年、国立大にはよくあると言う京大の「開かずの間?」でこの件に関する貴重な資料が発見されました。当時のレントゲン写真他の資料ですが、それらを分析した結果は驚くようなものだったのです。

それによると被葬者の右肘の関節が変形していて、肋骨も数本折れている事が分かりました。さらに背骨に圧迫骨折痕が見られるので、大きな事故にでも遭ったのかもしれません。それを見た整形外科医の分析は以下のものです。

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(右の小さい画像が健常人の肘)

当たり前のように「この人はテニスプレイヤーですね?」と言われたそうです。右肘を長年酷使している場合、そういう例が多いと言います。肋骨の骨折に関しては死後ではなく、骨折後3ヶ月は生存していた形跡があると言うのです。棺や副葬品などからAD7世紀頃のものだと分かっていたので、流石にテニスプレイヤーというのはあり得ません。

その副葬品ですがレントゲン写真を精査した結果、金糸の刺繍のある烏帽子のようなものが確認されました。それをさらに掘り下げていくと、どうも当時朝廷から功労者に与えられた大織冠という冠に行き着くのです。(下の画像参照)

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(手前の緑色の物も副葬品で、玉枕と言う。日本にはなかった高度なガラス成形技術で作られている。被葬者の出自を窺わせる。)

大織冠を授かった人は日本広しと言えども二人しかいません。藤原鎌足と、当時人質として朝廷が百済王から預かっていた王子、扶余豊璋だと言うのですからビックリです。思わぬ大物が掘り当てられたようです。

当時百済が日本(倭国)の領土である任那を度々侵していて、蘇我馬子大王は頭を痛めていたと言います。そこで蘇我入鹿大王の時に百済武王の息子二人を人質として差し出させました。豊璋と弟の塞上ですが、二人は入鹿大王の子である大海人皇子(後の天武天皇)と共に分け隔てなく育てられたと言うのです。

その後豊璋は中大兄皇子と名乗りますが、その時期は不明です。6歳で人質となった豊璋は18歳の時(643年)に法興寺で催された蹴鞠の会で中臣鎌足)と出会い、意気投合して乙巳の変を企てるのですが、お互いが百済人であることを知っていたからこそではないでしょうか。これは偶然とは言い難く、岐が仕組んだ出会い劇ではないかと思われます。つまり豊璋は最初から意中の人だったのです。

岐は百済からの島流しという口実でその3年前に日本にある目的を持って上陸していました。当時百済からの難民や亡命者が多く、その殆どは不純な目的と解釈され追い返されていたそうです。つまりその時代の大和政権は百済に対しては優位な立場にあって何の義理もなかったと思われます。

という事は4〜5世紀に渡来して崇神王朝の済に入婿したと言われる百済王族の昆支(応神天皇)を祖とする蘇我氏のルーツは、新羅経由の秦氏系である可能性もないとは言い切れません。

あるいは王子の大海人と言う名からすれば安曇氏系なのか?因みに天武天皇の妃の一人は尼子娘と言って海人族(安曇氏系)である事は一目瞭然です。これは天皇系のルーツに関する核心に迫る大問題ですが、解明するには宮内庁という難関が立ち塞がります。

いずれにしても新規渡来人が先住渡来人政権を倒そうとしたのは間違いありません。しかもそれは成功しました。大化の改新と大見得を切るくらいですから大成功だったのです。だからこそ、この二人が百済系新政権(大和朝廷)から大織冠を授かる訳です。

点と線がつながってきました。ところで中臣鎌足は弓の名手だったと言います。しかも藤氏家伝によると狩の途中落馬して重症を負ったと言うではありませんか。どこかで聞いたような話です。

落馬後3ヶ月は生存しましたが、天智天皇から大織冠を授かる1日後に亡くなったと言うのですから、阿武山古墳の被葬者の遺骨の分析結果と見事に合致して来るのです。テニスエルボーはボウエルボーだったのです。

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大化の改新として我々が散々見せられて来た犯行現場イラスト(江戸時代に描かれたというが、事実とは異なるようだ・上の画像参照)を見ても中臣鎌足は弓を持って控えているように見えます。

首を刎ねているのが豊璋(中大兄皇子)で、刎ねられたのが蘇我入鹿大王です。後方に見えるのは皇極天皇と言われていますが、中大兄皇子の母親という触れ込みです。

点と線が繋がり、さらにそれが時空を越え、クリアな面として見えた瞬間でした。渡来人テロリスト藤原鎌足は1353年前に確かに存在していて、大化の改新の功績を認められ大織冠を授かったのは紛れもない事実なのです。この重大発見はなぜか日の目を見ていません。

ところでテロ実行犯の片割れ扶余豊璋ですが、父である武王が死亡し百済が唐との戦いに敗れた後の661年に次期大王を請われて百済に戻っています。それも5000人の大和軍護衛部隊を引き連れてというのですから、その扱いはやはり次期大王級です。

その後豊璋は行方をくらまします。そもそも衰退して周りを敵に囲まれた国の大王になるつもりはなかったのです。高句麗にいたところを唐軍に見つかり、唐へ連行されたという説もありますが、おそらくそれは実兄?で事実は中大兄皇子に成り代わって大和へ戻って来たと思われます。

しかしながら故国への想いは強かったのか、あるいは660年の敗戦で大挙亡命してきた王族、貴族らに押されてか、663年の白村江の戦いに大和から大軍を送る事になります。およそ5万と言われる大和軍を推定千隻の軍船で三波に分けて派兵するのですからすごい話ではないでしょうか。

その当時の日本の人口は400〜500万人程度だと思われますから、今の人口比で言えば25倍、120万に相当します。それらを乗せるだけの船があった事だけでも驚きですが、援軍として海外まで大軍を送って勝てる見込みのない戦争をするというモチベーションが理解不能です。肝心な支援先の百済には敗残兵しか残っていないのです。

対する唐・新羅連合軍は18万とも言われますが、水軍は七千人程度と大した数ではなかったようです。それにも拘らず、突撃しか能のない大和軍はたちまち400隻余りを失いあっさりと敗退する事になりました。

その責任はもちろん後の天智天皇である中大兄皇子にありますが、唐からの追求を逃れるために烽火・防人を設置し太宰府には水城等、大規模城壁を築いた事は歴史的事実として今も残る遺跡が証明しています。

長くりましたので続きは次回とさせて下さい。

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2022年6月27日 (月)

いまだによく理解されていないお金の話

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---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---

 
 先日ある陰謀系サイトを見ていたら、おかしな事が書いてありました。日本政府はコロナ禍の2年間で100兆円をゆうに超える莫大な赤字国債を刷りましたが、そのツケは必ず国民に回ってくると言うのです。

借金で首が回らなくなった政府は、最終手段として預金封鎖をするだろうと言うのですから穏やかではありません。そんな事をされたら皆餓死してしまいます。(笑)

物とサービスの供給が出来る限りそんな馬鹿な事は起こさないし何の意味もないのですが、その理屈が分からない人たちが大勢いて、相変わらず預金封鎖が大好きなようです。

もしそれが可能として、ではどういう機序で起きると言うのでしょうか。不毛な話ではありますが、一応考えてみたいと思います。

まず、国民の持っているお金マネーストック(M3)の残高ですが、5月末時点で1558兆円あります。簡単に言うと銀行預金と現金の残高がそれだけあるのですから、1000兆円以上あると言われる国の借金は、それで返済可能に見えます。

次にマネタリーベースと言われるお金ですが、日銀当座預金残高が560兆円、日銀券発行残高が120兆円で合計680兆円になります。

ここが混乱する原因と思われますが、政府が手を突っ込んで取れるお金は、この680兆円だけなのです。という事は1000兆円以上の借金をチャラにする事は現実には出来ないという事です。

なぜなら我々が持っている通帳の残高は単に銀行の負債の記録に過ぎず、それを担保するものは銀行が持っている債権(貸出証)のみだからです。政府がその債権を取り上げても、マネタリーベース残高以上の金額にはなりようがないのです。それこそただの紙切れです。(笑)

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(信用創造「貸出」とは、無から有を生み出すから創造なのだ。だから返済で消えていく。)

もし銀行預金という制度がなく、お金が全部ゴールドなら国民の持っているお金を全て奪う事は可能ですが、管理通貨制度の今は銀行が創造する通帳に印字されただけの架空のお金が大半になるので、そもそも取り上げる意味が無いのです。

つまり、取れるお金は全て自分が発行したものなのに、それを全て取り上げるというのは自己矛盾以外の何物でもありません。預金封鎖が好きな人たちは、そのお金はどこから来たと思っているのでしょうか。

という事は、お金が欲しければまた自分で刷ればいいという事になります。つまり国債発行です。これが主権国家に認められた通貨発行権なのです。その国債を日銀が買った時点で本物のお金(マネタリーベース)になります。

でもこれまで、これをいくら刷ってもインフレにならず、経済が良くなる事もありませんでした。だから本物のお金である筈のマネタリーベースこそ絵に描いた餅という事になります。

ややこしい話ですが、銀行が作った架空のお金に過ぎない国民の通帳残高こそが経済発展に寄与するのです。だからコロナ禍であろうが何であろうが、マネーストックを増やしたというのは正しい政策と言えます。

後はそれが使える環境を整えるだけなのですが、どうも偏っているようで一般庶民のところに来ていないのが問題です。まあでも長い年月をかけて、そうなるように仕組まれてきた感は否めないので、正常化は程遠いと思われます。

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 (欧州連合(EU)が、暗号資産・ブロックチェーンとりわけステーブルコインに関する規制の枠組みを、2024年までに整備する方針であることを明らかにした。日本も24年に新札が出てくるが、何か関連があるのか?)

ついでに基軸通貨の話もしておきます。これもよく勘違いしている人がいて、日本円はドルやユーロに比べて世界での流通量が少ない、つまり円の価値は大した事がない証拠だと言うのです。

頭が痛くなります。(笑)なんでそんなに円を流通させたいのか分かりません。基軸通貨になれば何かいい事でもあるのでしょうか?何でも買えるようになる?

いや、別に円で買えない物など世界にはありませんし、それで困ったと言う話も聞いた事がありません。中東の石油はドルでしか買えないかもしれませんが、それは米が力でそういう仕組みを作っただけで、特に基軸通貨としてのメリットではないのです。

どうしても円を世界で流通させたいと言うなら、経常赤字国になればいいだけです。米のように毎年巨額赤字を計上していれば世界中がドルを持つようになり、それだけ流通するという訳です。

そんな事に何の意味もないと言うか、それはむしろ米のように政府債務を膨らませるリスクでしかないのですが、円の真の価値がよく分かっていない人が妄言を繰り返します。円の供給量が少ないという事は裏返せば世界にそれだけ価値があるものが少ないという事なのです。

買わなければいけないものが沢山あればあるほど、円を刷らなければいけないし、そうなると流通量は自然に増えます。それは日本が買われることを意味し、グローバル化がさらに進むのです。

日本が低迷した要因の一つにグローバル化があります。グローバル化は富の移動を促し、世界平準化が促進されます。つまり先進国ほど相対的貧困に陥るのは自明なのですが、グローバル化が大好きな人が大勢いるのも日本の弱点です。

今の日本はそのせいで価値の高いものを安く売り過ぎています。最も価値が高いものはその高付加価値を創造する上で重要な生産要素である日本人(技術)と日本の通貨(円)と日本の土地です。

これを外国に安く売る事が文字通り売国で亡国化なのですが、なぜか経団連や政府が一生懸命推進しています。世にも恐ろしい事が普通に実行されているのです。世界統一通貨やデジタル化?金本位性?全く日本には必要ありません。

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