天皇家の起源は記紀によると神武天皇が即位した紀元前660年(皇紀)とされていますが、それはなさそうです。初期には在位期間がやたらと長い天皇(存在が疑われる)が数多くいて、意図的に伝統ある古い国と見せかけた節があります。記紀が編纂された当時の大国であった唐に対して見栄を張り、対等に接しようとしたからなのかもしれません。
戦後調査したGHQは仁徳天皇以降が史実で、それ以前は神話と決めつけています。戦前は盛んだったと言われる「日ユ同祖論」に関する文献をことごとく焚書にし、仁徳天皇綾や剣山まで調査の手は及びました。日本人の祖先がスファラディ系ユダヤである事が、アシュケナージ系ユダヤと言われる米指導層にとって余程都合が悪かったと見えます。
(天武天皇の命を受け、藤原不比等が編纂したのが古事記と日本書紀〜勝者の歴史書か)
いずれにしても、天孫降臨はそんなに古い話ではありません。天地創造の昔のような錯覚を抱かせますが、大陸から徐福が来日したBC2〜3世紀頃に重なるのです。この時に縄文系である出雲族から国譲りをされて、日本に統一国家(邪馬台国)らしきものを作ったと思われます。天照大神(最初は男神)のモデルは徐福集団の中にいたとしても不思議はないのです。
ところが歴代天皇は主祭神が天照大神である伊勢神宮に参拝しないと言います。八幡総本宮である宇佐神宮に対する対応、姿勢とは大きな差があるのです。この時点で万世一系に疑問符がつきます。 邇邇芸や天照大神を皇祖として認めていない事になるのです。
その宇佐神宮には応神天皇とその母君神功皇后(女傑)が祀られていますが、もう一人祀られている比売大神との関係がよく分かりません。比売大神は近年、卑弥呼、あるいはそれをモデルにした天照大神だとも言われていますが、それなら尚の事、三人を並べて祀る意味が分からないのです。
なぜなら3世紀頃、朝鮮半島(百済)からやって来た渡来系である応神天皇側が卑弥呼の邪馬台国を滅ぼした(あるいは乗っ取った)のではないかと思われるからです。
ただ、祟りを恐れた応神天皇の子孫が卑弥呼の霊を鎮めるために一緒に祀ったとすれば、祟りを信じていた当時としては十分あり得る話ではないでしょうか。第一殿の応神天皇と第三殿の神功皇后で両側から第二殿の比売大神(祟り神)を挟んで封じ込めるような形になっているのは、その証と思われます。
因みに伊勢神宮を参拝したのは持統天皇と明治天皇だけと言われていますが、明治天皇の場合は政治的意味合いが強いと思われます。現人神として軍国主義を進める上で、色々な意味での神格化は必要だったのではないでしょうか。
(天皇家の起源に関しては記紀よりもウエツフミの方が詳しく書かれていると言う。ウガヤフキアエズ王朝の記述は記紀にはない。)
縄文晩期〜弥生時代にかけて日本に渡ってきた弥生系集団は大きく分けて三集団あります。そのどこかで天皇の血統が入れ変わっていても全く不思議はありません。
第一弾は前述の徐福(道教の方士)グループです。不老不死の薬を探しに行くと秦の始皇帝を騙し、紀元前2〜3世紀頃、最初は若狭湾、次に北九州と二度に渡って、計数千人の単位で上陸しました。技術者グループと成人前の若い男女が中心だったと言われています。
吉野ヶ里環濠集落を築き、周りを制圧していった彼らこそ邪馬台国(実は倭国)卑弥呼の祖先と思われます。そのヒントは卑弥呼(姫巫女?)が行なっていたという鬼道(一種のシャーマニズム)です。道教もまた鬼道がベースで秦の前身と言われる殷時代に盛んに行われていたと言うのです。
第二弾は3〜4世紀で、その最も多いグループは新羅経由で集団帰化した秦氏です。秦の始皇帝の末裔を自認し、土木、養蚕、機織り等の技術者集団でした。馬を初めて日本に連れて来たのも彼らだと言われています。
政権中枢に近づいた彼らは平安京の立役者で、日本全国に当時現存在していた神社乗っ取りも含め 8万もの八幡神社、稲荷神社を建立しました。空海も秦氏ではないかと言われていますが、神仏習合を推し進めたのが秦氏かもしれません。
景教徒(ネストリウス派のキリスト教)であった彼らは日本の神道がユダヤ教をベースとしている事に気づき、宗教的に争う意味がない事を悟ったのではないかと思われます。神道も仏教もイスラム教もキリスト教もユダヤ教の影響を強く受けたと言う説を否定する根拠を見つけるのは困難です。

(ユダヤ教のシンボル、6芒星はダビデの星、籠目マークでもあり、かつて伊勢神宮の灯籠に刻まれていた。)
第三弾は日本存亡の危機となった663年の白村江の戦い前後に百済から大量にやって来た騎馬民族扶余で、侍の原型がこの時形成された可能性があります。彼ら(中大兄皇子こと扶余勇、中臣鎌足こと扶余豊璋)が645年に大化の改新、乙巳の変を起こし、蘇我氏や聖徳太子一族を滅ぼしました。
扶余のルーツはユダヤ人と同化した獰猛さで有名な騎馬民族スキタイで、これが東大、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」の根拠とされています。右翼が嫌いますが、その可能性は高いです。因みに天智天皇の弟とされる天武天皇の時に天皇という呼称に変わりましたが、その前は大王でした。
大和から日本という国名になったのもこの前後だと思われます。扶余が百済にいる時代に朝鮮半島を指して「日が昇る国」と中国から呼ばれていたそうです。唐と新羅の連合軍に敗れた百済(扶余)が同族が待つ日本を次の居住地と定めた事に特に違和感はありません。
さて、現在の天皇家ですが、明治維新でそれまでの北朝の系統からすり替わったという説が有力です。長州の下級武士だった南朝の末裔、周防国熊毛郡田布施郷出身の大室寅之助は同じく田布施出身の伊藤博文らによって担ぎ上げられ明治天皇となります。正統とされる北朝の孝明天皇の皇子である睦仁親王とは顔も体(大男)も似ても似つかなかったと言われているのです。
(南朝の末裔と言われている明治天皇こと大室寅之助)
これ以降、日本は田布施出身の政治家によって統治される事になります。最近では安倍晋三氏が山口県の田布施町出身です。天皇家と安倍晋三氏の関係は驚くような事実があると言われていますが、確かな情報とは言い難いので今回は触れません。
ところで、大室寅之助が南朝、後醍醐天皇の末裔と思われるのは、皇居前広場に北朝から見れば国賊である筈の南朝の忠臣、楠木正成像が設置されている事によります。江戸遷都も、すり替わりの事実を隠すためと考えるのが妥当です。明治維新、東インド会社(英国)傀儡のクーデター政権としては操りやすい国家の象徴としての天皇が必要だったのでしょう。
ただ今上天皇が本当に後醍醐天皇の血を引いているかどうかは調べようがありません。(利権集団である宮内庁が許さない)日本人としては信じていた方が何かと好都合かもしれませんが。
まとめ
徐福の血が、一説によると縄文系とさえ言われる今上天皇まで続いている可能性は低いです。裏の建前としては応神天皇あたりから血が繋がっているとしたい?のかもしれません。なぜなら、崇神天皇、応神天皇、さらに初代と言われる神武天皇は同一人物である可能性が否定出来ないからです。時期と行動、人物像が重なります。しかし、これも大化の改新で寸断された可能性は否定できません。
しかしながら徐福も秦氏も、あるいは扶余にしても、そのルーツはシュメール(メソポタミア)に繋がる可能性は高いのです。なぜなら初代である神武天皇を「カムヤマト・イワレビコ・スメラミコト」と言った事に対し、この三集団とも抵抗している痕跡がないからです。
歴史の表舞台から忽然と姿を消したシュメール人は、エジプトを経由しモーセに率いられ長い放浪の旅の後、エルサレムに辿り着きイスラエル王国を建国しました。その後、神の怒りに触れ?権力闘争が起き北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれる事になります。
しばらくは繁栄を謳歌したようですが、アッシリア、バビロニアに滅ぼされた後アケメネス朝ペルシャのキュロス二世(八咫烏のルーツか?)によって解放されます。しかし、その後の行方が分かっていません。失われたユダヤの12支族は、おそらく旧約聖書の予言に従って、東進を続け日本にまで辿り着いたのではないでしょうか。
その約束の地(日本=ミズホラ)に降り立ったそれぞれの集団には末裔がいます。徐福集団は物部氏や海部氏として存在感を示し、のちに秦氏と同化(擬態か?)していったのです。言葉が通じたという、その3グループの人達が自分達のルーツを知っているからこそ、記紀の時代に定められた初代天皇の呼び名に異論を唱えなかったのです。
「カムヤマト・イワレビコ・スメラミコト」の意味はヘブライ語で「神の民の上に立つユダヤの第一王子でシュメールの尊い人」です。(諸説あるが大差ない)つまり個人レベルはともかく、民族的な意味での血は継承されているのかもしれないのです。
因みに伊勢神宮には三種の神器の一つ、八咫鏡が祀られていると言いますが、そこには「ありてあるもの」とヘブライ語で書かれているそうです。それはモーセが神に名を尋ねたところ、私はありてある者だ、と答えた事から来ていると言います。
一般的に神はヤハウェという事になっていますが、どちらも固有名詞ではありません。なぜなら神は人格ではないからで、全てのものに宿る抽象的な存在だからです。
また前方後円墳と言われる応神天皇陵、仁徳天皇陵は旧約聖書に出てくるイスラエルの三種の神器の一つであるマナの壺の形をしています。マナ(マンナ)とはマンマ、つまり食料のことで、籠目神社か伊勢神宮外宮にあるとされる真名之壺、さらに伊勢神宮外宮 の主祭神である女神、豊受大神(食料、穀物を司る)に繋がって来るのです。
蛇足になりますが、Y染色体ハプログループを調査した結果、1世紀あたりからD1b1a2が優勢となっているようです。6世紀以降はO 1b 2a1a1が優勢になるのですが前者が天之忍穂耳命、つまり事実上の皇祖(徐福Gの誰か)で後者が藤原氏ではないかと言われています。
10世紀あたりからは再びD1b1a2が優勢になりますが、天皇家がDNA上でも捲土重来を果たしたのかもしれません。これが事実なら万世一系の根拠にはなり得ます。全てはあくまでも仮説に過ぎません。
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