もったいない(!!)
日本語の「もったいない」は世界共通語になりつつあるようです。という事は、世界にはそういう意味の言葉は存在しないのでしょうか。日本語だけの専売特許だとすれば、少し誇らしいような気がします。
そういえば先日テレビを見ていた時の事です。定額給付金の話で、ある中年女性コメンテーターが「そんな不労所得は支給されたら無駄遣いをする」と言うのです。それを受けて有名エコノミストのMさんが「工場や労働者を遊ばせる方がよっぽど無駄じゃないか」と言いました。
成る程、考え方の違いで正反対の評価になるのだ、と思ったのですが、ものが豊富でなかった昔の人程、無駄やもったいない、の意識は強いようです。
又ある日ネットを見ていた時の事です。あるブログで昨年の第四四半期のGDPが年率換算ー12.7%が余程ショックだったのか、内訳の個人消費が0.4%しかマイナスしていなかった事を「この不況なのに、ノー天気な日本人は無駄遣いをしているからこういう数字が出ている」と批判していました。
これは極端な例ですが、無駄をしない事で、数字の落ち込みが大きくなり経済がどんどん悪くなったとしても、節約する事に意味があるから不況は甘受出来るという意味なのでしょうか。それはそれで一つの見識かもしれません。
ところで、人間の価値観は時と共に、また状況と共に変化します。日本人の場合でも50年前と今とでは全く違うと言えるのではないでしょうか。勿論今でも、もったいないという言葉は生きていて、普通に使っていますが、その意味合いはかなり変化している可能性があります。
世界単位での大量生産を前提とする近代資本主義経済の下では、消費を罪悪だとしたら経済が成立しません。どんどん消費して使い捨てにするアメリカ型が一時期奨励されました。最近では資源の無駄遣いを無くそうという意味で、リサイクル出来るもの以外は過大な消費は戒められる傾向にあります。
しかしそれは一個人や人間単位で見た時の価値観にしか過ぎないのです。地球単位で見た場合に、例えば地下に眠る石油が枯渇しようが、天然ガスが無くなろうが体制に影響ありません。それで地球上の生体系が崩れる事はないのです。
それが、地上になると話は変わります。木がなくなったり、魚がいなくなったりしては困るのです。環境汚染も当然問題です。そこは自然と折り合いを付けなければなりません。人間の我がままは許されないのです。一方的に生体系を破壊すれば結局は人間にはね返る事になります。
何が言いたいのかと言いますと、地球と共存出来る範囲であれば、人間の少々大きな消費活動くらいでは罰は当たらないのではないかという事です。勿論、ものを大切にしないのは価値を冒涜する事になり、論外ですが、お札とものは両方共、使わなければ意味がないのです。幸いな事に、今ある物(商品)は全て、リサイクル出来る材料に置き換える事が理論的には可能だと言われています。人類の英知が地球との共存を実現する日は遠くはないのです。
人類の最大の長所とも言える、便利で上質で魅力的な“もの”が作れるという事は、それだけで大きな価値になります。その“もの”を所持したりサービスを受ける、一種の特権を行使出来なければ、人間としてその時代に生まれて来た意味が半減するのではないでしょうか。価値を正しく評価出来る人が、正しい経済的行為の範疇で、その恩恵を受ける為の制限はありません。
意味なく情緒的、習慣的に昔の価値感で「もったいない」という方が、よっぽどもったいないのです。お金は流通させる事に意義があり、ものは作られ、消費される事に意義があります。それに抵抗があるなら、原始生活に戻るしかありません。それはそれで一つの選択なのですが、私は退屈で、おそらく死んでしまいます。。。
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