日本は核兵器を持つべきか(?)
少し話は古いのですが、土曜の夜NHKで核兵器に対する討論会をやっていました。メンバーは一般主婦から、被爆者、学識経験者、自衛隊員と幅広く、100人近くいたのではないでしょうか。偶然見つけたのですが、白熱する議論に、つい引き込まれました。
印象として、この手のNHK番組にしては偏向度合いが弱い感じがします。さらに、日本も随分変わったな、と驚いたのですが、核保有に対する肯定的な意見が意外に多いのです。視聴者に対するアンケートでも73%が核保有に関する議論をするべきとしているようです。
やはりアメリカの衰退や周辺国の脅威が影響しているのでしょうか(?)昔みたいに、核アレルギー反応のような「駄目なものは駄目!」的なことを言う人は確実に減って来ているのです。
持つべきではないという人の中にも、核に代わる何かは必要だと感じている人は多く、それが確立されるまでの間は、取りあえず自力で核は持たないまでも、核の傘は手放せないと言うのです。
社民党や共産党のように、持てば使うから駄目!とか、日本さえ何もしなければ相手から攻められる事はないと、言う人はさすがに減ってきました。
一方で、唯一の被爆国としての存在感は確かに大きいのですが、原爆式典で「二度と繰り返しません」と謝っている言葉の主語は誰なのか、相変わらず、戦争=原爆=悲惨な被害 的思考の人が多い事も事実です。
そこで混同してはいけないのは、戦争と原爆使用(広島/長崎型 PHOTO)は直接の因果関係はないという事です。第二次時世界大戦前、戦争は国際法上の合法性はともかくとして、国家間の最終的外交手段とも言えるものでした。
そこにはスポーツではありませんが、ルールが定められていて、大量破壊兵器の使用は当然禁止されているのです。先の大戦前は勿論原爆はなかったので、対象兵器には含まれてなかったのでしょうが、一般市民に対する無差別爆撃は認められる筈がありません。
もし、それを破った場合は戦争とは関係なく、テロ、犯罪として罰せられなければならないのです。従って、第二次大戦後の東京裁判で、原爆投下や3月10日の東京空襲が裁かれなかった事は、著しく公平性を欠くものと言わざるを得ません。
その件に関しては参加した「日本は無罪」で有名なインドのパール判事他、各国判事が後に証言しているように、全くの戦勝国都合の一方的な責任の押し付けであった事は間違いないようです。
とりとめが無くなってきましたが、何が言いたいのかと言いますと、基本的には、安易に核及び、大量破壊兵器の類いは持つべきではないという事です。アメリカの核の傘にずっと入っているような、独立国らしからぬ事を続ける事も非現実的かもしれません。
ただ、穏やかな人達とは言い難い周辺国に対する駆け引きとしての核保有という選択肢は残すべきです。あるいはディフェンスの為の相応の軍備も必要でしょう。さらに、核より大きな抑止力があれば言う事がありません。
ところで、実際に戦争が起きた場合、核使用の確率はどのくらいあるのでしょうか。しかも持たない国=核の報復があり得ない国に落としたとあっては人類史上、最悪の汚点を残す事になります。(アメリカのように)
そのリスクを負う国は今の時代に、果たしてあるのでしょうか。まともな国家の場合は考え難いのです。例え一部指導者が錯乱して使用したとして、我が国のメンタリティを考えたとき、一般市民に対する核報復が出来るのでしょうか(?)甚だ疑問です。
という事は、むしろ戦争での使用よりもテロでの使用に対するディフェンスを考えなければならないのかも知れません。この場合はなおさら、場所の特定が困難な相手に対する報復など出来る訳がないのです。
結論としては、非核での核及び戦争抑止力増強、例えば政治力や相手の経済の急所を握るような技術的優位性を確立する、反面、テロに対する備えだけは万全にする等で、危険な国を含めた地球に貢献出来る平和主義技術立国を目指すしかないのではないでしょうか。
理想主義と言われるかも知れませんが、世界から、そういう姿勢が評価されたとき、いかに反日の野蛮国と言えども、核を使用する確率は限りなくゼロに近くなるのかもしれない、と思われた方、クリックをお願いします。
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