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2014年1月19日 (日)

恩讐の彼方にあるもの(後編)

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--- TPP消費増税 /カジノ解禁に絶対反対 ---

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翌日になると朝鮮人達がやって来た。以前は好意的だった連中の目の色が変わっている。統治機構が崩壊して、抑制が利かなくなったのだから十分に予想出来る事ではあったが、ショックは隠せない。抵抗はしないで、欲しがるものを与えた。

数日後、米軍の大部隊が上陸したという情報が伝わる。洋子の中学生の弟が制止も聞かず、様子を見に外へ出て行ったが、しばらく経ってチョコレートを土産に得意げに戻って来た。GIからもらったらしい。

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その頃は幸一と洋子は幸一の実家に身を寄せていたのだが、これからどうなるのか、日本に帰るにしても、いつになるのか情報はなく不安は募るばかりだった。

一週間も経つと北朝鮮方面から引き上げて来た人達が学校や公共機関に身を寄せているという情報が入った。女性は坊主頭にして男のような格好をしていると言う。皆憔悴しきっていたらしいが、移動さえままならないので差し入れに行く事も出来なかった。

ただ米軍が来てからは一部のエリアの治安は回復しつつあったので、洋子は理容室に義理の妹と行ったりしていたようだ。ある日理容室の帰りに果物を買おうとしていると一人の背が高い米軍兵士が近づいて来た。洋子は英語がよく分からなかったので追い払おうとしたが上手くいかない。

結局家までついて来たと言う。幸一は逓信局に勤めに出ていたので義理の父が、洋子は人妻であると結婚写真を見せて説明をしたが納得しなかった。結婚指輪をしていないではないか、と言うのだ。その頃結婚指輪の習慣はなかったのだが、米兵にそれを理解させる事は難しい。

それでも押し問答の末、米兵は引き下がったと言う。そういう点で言えば日本に上陸して好き放題した連中よりもはるかに紳士的だと言える。周りを見ても米兵による被害はないらしい。むしろ米兵が日本人を朝鮮人から守ってくれている感さえあった。その頃日本人達は落ち着きを取り戻していた。

幸一は少し英語が話せたので通訳を頼まれる事になった。そのお陰で米兵の友人が大勢出来たらしい。個人的な付き合いにも発展し、ある時などは腰痛の洋子と幸一をジープで家まで送ってくれたと言う。米兵のアッシー君は聞いた事がない。(笑)

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              (イメージ画像)

10月になると日本人の引揚げが始まった。住んでいる町や属している団体によって区割が決められ、釜山経由、船で日本に向かう事になる。その時も知り合いの米軍兵士が幸一や洋子の家族を優遇してくれたらしい。

船に乗り込み安堵しながらも、今後日本での殆どゼロスタートになる生活に思いを馳せる幸一と洋子であった。船は攻撃される恐れがなくなった日本海を静かに進んでいった。。。

いかがだったでしょうか。このフィクションは、当時京城に住んでいた筆者の両親の話を元に若干の脚色をしましたが、かなり忠実に再現しています。いかにソウルが平和で治安が保てていたかが分かるというものです。

日本が本当に不誠実でひどい事を朝鮮に対してしていたならば、こうはいかなかったのではないでしょうか。少なくとも、国として負い目を感じなければならないような事はしていないと思われます。

ところが朝鮮は日本が敗れた途端、態度を変えました。強くて頼りになる日本には従順でしたが、負けた日本には用はないと言わんばかりです。特に北朝鮮からの引揚者は悲惨でした。共産党員の朝鮮人とソ連兵の暴虐ぶりは『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』にも詳細に記述されています。

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(著者ヨーコは昭和8年、青森生まれ。父が満鉄職員のため、生後間もなく家族で朝鮮半島北部の羅南に移住。戦況が悪化した20年、当時11歳だった著者は母と5歳年上の姉の女3人だけで半島を逃避行する。終戦時にいた場所で運命は大きく違った。)

挙げ句の果ては、自分たちは戦勝国だと言い出したのですから開いた口が塞がりません。サンフランシスコ平和条約でも、もちろんそれは認められませんでした。だって、全く戦ってなんかないじゃん。(笑)

ところで日本軍の将官クラスに士官学校出等の朝鮮人が9名もいたそうです。一般人からは80万人が志願し1万7千人が兵士として採用されましたが、彼らは日本の為と言うより、朝鮮の名誉を守る為、あるいは欧米植民地主義に対し、日本と共闘する姿勢を明確に示したのです。日本人兵士に勝るとも劣らない立派な軍人達です。

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(朴正煕を始め朝鮮人有志による日本軍入隊のための血書が殺到したという。以下朴正煕訓導自身が書いたとされる血書の内容

(前略)
 日系軍官募集要綱を拝読しますと小生は凡ての條件に不適合の様であります。甚だ僭濫にて恐懼の至と存じますけれども御無理を申しあげて是非国軍に御採用下さいませんてせうか
 (中略)
 日本人として恥ちざつだけの精神と気魄とを以て一死御奉公の堅い決心でこざいます。しつかりやります。命のつ?く限り忠誠を尽す覚悟でこざいます。
 (中略)
 一人前の満洲国軍人として満洲国のため延いては祖国のため何で一身の栄達を欲しませう、滅私奉公、犬馬の忠を尽す決心でこざいます
 (後略)

彼らは後に親日家の烙印を押され財産没収などの仕打ちを受ける事になります。朴クネ大統領の父親、朴 正煕も終戦時は満州国軍中尉でしたから、本来ならば親日法の適用を受けかねません。それもあってクネさんは過度な反日である必要に迫られているのでしょうか。

一方、朝鮮人への徴兵は44年からでしたが、訓練中に終戦を迎えたので一人も前線に行くことはなかったと言います。日本人でありながら本土の日本人より優遇されていました。当時の世界常識からは考えられません。日本の統治がいかに穏健で抑制的であったかを物語ります。

そんな状況下で日本軍の強制により慰安婦が20万人も連れ去られたなどという事があり得るでしょうか。彼女達は合法下での高給とり売春婦だったのです。朝鮮人女衒がいて軍に斡旋しました。

軍が直接関与した事を問題にする人もいるようですが、戦時下ですよ。兵の安全と衛生面の管理は慰安所に任せる訳にはいきません。無防備になる場所故に積極関与して当然ではないでしょうか。

日本軍が世界で最も規律が厳しく、民間人に対し穏健であった事は明々白々な真実です。だと言うのに、事実をねじ曲げ反日に狂走する彼の国は、一体どこへ行こうとしているのか全く理解に苦しみます。恩讐の彼方にあるものは、ルサンチマンによる逆恨みでは悲しすぎやしませんか(?)

日本としては事実を毅然として伝えて行くのみですが、政治家の一部やマスコミの抵抗があり思うに任せないようです。ここでも戦後レジームからの脱却を唱った安倍政権の真価が問われます。

今日の言葉(久々)

朝鮮半島が日本統治だった当時は朝鮮人などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である。

先日亡くなられた小野田元少尉の証言です。ほら〜やはり彼らは日本人だったじゃないか。(笑)その事実は消えない。

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(ジャングルに30年も潜伏していた小野田少尉、お疲れさまでした。ご冥福を祈ります。)


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コメント

 ハングル文字を見ると吐き気がこみ上げる今日この頃です。大東亜戦争が終結して70年近く経過しますが、大陸にある韓国と半島韓国はどんな国造りをして来たのでしょうか? 答えは1000年を経ずとも明らかになると
思います。小野田さんのご冥福をお祈り致します。きっと靖国に行かれたのでしょう。

投稿: いえもん | 2014年1月20日 (月) 15時25分

> 恩讐の彼方にあるもの

・・・恩讐の彼方に⇒〔様々な感情を乗り越えて〕と解くとすれば
”恩讐の彼方にあるもの”とは〔様々な過去の歴史的民族的感情を乗り越えて近接未来に向けてのビジョンを建設しましょう〕・・・私はそのように捉えました。

①個人の自己実現
②家族とかみんなのありたい姿
③様々なビジネス分野の地球規模での健全な発展
④資本主義・共産主義等のイデオロギーの対立から調和へ
⑤都市・国家・国家間での健全で前向きな発展を自然環境の地球規模での共存・・・

う~ん、、、人類と地球との関連という自然科学的な命題を文学的な響きにイメージする表題ですね。あらためて今年の目標を設定しようと思います、ありがとう。

投稿: AZ生 | 2014年1月20日 (月) 17時53分

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