« 国民の努力は報われない(?) | トップページ | 日本のような先進国に外需は必要なのか »

2015年3月18日 (水)

「日本はアジアの希望の光だった」

Photo     

--- TPP消費増税 /カジノ解禁に反対します ---

ブログランキングに参加しています。

プーチン大統領がメディアに対し去年のクリミア侵攻時「核兵器の準備ができていた」と語った事が衝撃を持って伝えられています。。。えっ・・何で今さら驚くのでしょうか。そんな事は常識でしょう。米軍だって原潜や空母に核兵器を搭載して日本に寄港しているのは暗黙の了解のようなもので、誰もが知っています。

搭載しているという事は「使う準備ができている」と同義語です。という事はロシア軍だって常に準備はしています。それが戦術核であろうが戦略核であろうが同じでしょう。兵器は常に使える状態で準備していないと持っている意味がありません。驚く方がおかしい。(笑)

それでも殊更プーチンさんが核兵器に言及したのは西側に対する一種の脅しではないでしょうか。覚悟は出来ているんだぞ・・・と。

さて、中国が安倍さんの(戦後)70年談話に関し「村山談話を引き継いでくれるなら過去の問題を終わりにし、その後は未来志向で行こう」と言っています。それに乗るべきだと考えている日本人も少なくはないでしょう。ビジネスをしている人は特にそう思っているかもしれません。

しかしこれは明らかな内政干渉です。戦後70年の節目に日本が何を思い将来に対して何を誓うかは日本の勝手です。無視でいいのではないでしょうか。

いずれにしても今の政府に、そんな何の保証もない戯れ言を信用するバカはいないでしょう。

過去に言った事を翻すのは中韓の得意技です。もし信じて口車に乗ったなら、その途端に「やっぱりそうじゃないか。賠償しろ」と言われるのが関の山です。中韓に言質を与えるような事を安倍さんがする筈がありません。



そもそも村山談話の「侵略」と「植民地支配」とは何を指すのでしょうか。どの国ををいつ侵略したのか、あるいは植民地支配したのかを明らかにする必要があります。あの当時の概念から、その表現が正しいのかどうかさえ検証がなされていません。その超適当で胡散臭い談話をを引き継ぐのでは、戦後レジームからの脱却を唱える安倍さんの政治姿勢、公約に反します。



当時の情勢から、朝鮮半島は独立し国家としてやって行くには力不足と見て仕方なく日本が併合しましたが、それは米英も認めているところです。台湾然りです。その統治ぶりはと言えば同じ日本人として平等に扱い、インフラを日本人の血税で整備し経済発展もさせました。



病院や学校も何百倍にも増やしたのです。そのせいか朝鮮半島統治の35年間で人口は倍に増えています。明らかに欧米の植民地支配などとは一線を画すのです。それを欧米の血なまぐさい、搾取一方の植民地支配と同列に表現する事が果たして正しいのでしょうか。



侵略というのも妙です。まず中国に派兵はしましたが、当時欧米列強も中国内に租界を作り派兵をしていた訳です。治安が最悪なので当然でしょう。さらに国と呼べるような状態ではなく長い内戦状態です。国の体をなしていません。

関東軍の暴走は一部あったかもしれませんが、ちょっかいを出していたのは国民党軍とコミンテルンにそそのかされた共産軍です。侵略という表現が正しいかどうかは大いに疑問なのです。

野盗の群れのような国民党軍を追い払い民衆を救っていたのは日本軍だと言われています。一般大衆にしてみれば侵略とは程遠いのではないでしょうか。少なくとも平和に暮らしていた国を、欧米のように領土的野心をもっていきなり攻めた訳ではありません。



さらに仏印や蘭印、英印、また米領フィリピンを攻めた事も侵略には当たらないでしょう。英米仏蘭を追い出し欧米による植民地支配を終焉させたのですから開放です。どう考えても侵略と植民地支配を詫びるべきは欧米以外見当たりません。

ところがその、人類に対し極悪非道を働いて来た当事者である彼らが謝罪したり賠償するのを聞いた事があるでしょうか。日本に全てなすり付けて知らん顔です。厚顔無恥とはこの事ではないでしょうか(笑)

もちろん欧米人の中にもそういう事実を個人的に伝えている人はいます。マイケル・ヨン氏やテキサス親父、最近はケント・ギルバート氏まで日本の側に立っているようです。人の口に戸は建てられません。事実は解明され徐々に周知されて行く事でしょう。

元ニューヨーク・タイムズ東京支局長ヘンリー・ストークス氏が 平成25年11月6日に憲政記念館で講演した「日本はアジアの光だった」をコピペします。

これは例によって共同通信が捏造記事を書きましたが、事実は以下の通りです。

Ok___





皆様、こんばんは。ヘンリー・ストークスです。
このシンポジウムは一九五二(昭和二十七)年の日本とインドの国交樹立六〇周年を記念して開催されております。このような歴史的な瞬間を、皆様と共にできることを光栄に存じます。

二十世紀で最も驚くべき展開は、五〇〇年続いた植民地支配、その呪いが終焉を迎えたことにあります。白人による支配が霧散してしまいました。誰もまったく予想しなかったことでした。

一九三〇年代末に「インドの独立はいつになるか」と問われたネルーは、「七〇年代には実現するかもしれない」と答えました。つまり彼の亡き後という意味です。
しかし一九四〇年代初頭になると、インド人たちから独立の気運が高まりました。なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。

答えは簡単です。第二次大戦が勃発し、五〇〇年のドラマの中の新興勢力が、白人の植民地支配に痛烈な打撃を与えたからです。その新興勢が、日本でした。
インド独立のタイムテーブルは、ネルーの七〇年代から第二次世界大戦の終焉時へと短縮されたのです。ここで、歴史の時間を二十世紀から十七世紀初めまで時間をもどしてみましょう。

インドでは、イギリスが一六〇〇年に東インド会社を設立し、植民地支配に着手しました。イギリスは、マドラス(一六三七年)、ボンベイ(一六六一年)、 カルカッタ(一六九〇年)に東インド会社を進出させました。

イギリスの侵略は、プラッシーの戦い(一七五七年)、マイソール戦争(一七九九年)、シーク戦争(一八四五年)と続き、一八五七年から五九年にかけて反イギリス民族闘争である有名な「セポイの乱」が起こりました。

こうしてイギリスがインドを抑圧支配する中で、日本で一八六八年に、明治維新が起こりました。また、ほぼ同じ頃に、インドでは独立のために戦った歴史的な人物が生まれています。一八六九年にはマハトマ・ガンジーが生まれ、一八九七年には、チャンドラ・ボースが誕生しています。

一八七七年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立し、ビクトリア女王が「インド皇帝」として即位しました。つまり、ボースはイギリスのインド植民地支配の絶頂期に生を享(う)けたのです。

ボースは今でもインドで「ネタージ」と呼ばれています。ネタージとは「偉大な指導者」という意味です。日本の支援を得て、ボースはINAを結成しました。「Indian National Army (インド国民軍)」です。イギリスの植民地支配と非暴力主義で戦ったガンジーと対照的に、ボースは司令官として戦闘を戦いました。

1943年5月16日、ボースは来日し、嶋田(しまだ)海軍大臣、永野(ながの)軍令部総長、重光(しげみつ)外務大臣などと面会し、そのうえで、東條英機首相と会談しました。

ボースは日比谷公会堂で講演し、そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。「約四〇年前、小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。このアジアの国はロシアを大敗させました。 そしてその国が、日本だったのです。このニュースがインド全土に伝わると興奮の波がインド全土を覆(おお)いました。

Img0e290018zik1zj

 (壮絶を極めた二百三高地の戦い)

インドのいたるところで、旅順(りょじゅん)攻撃や、奉天(ほうてん)大会戦、 日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立っていました。インドの子供たちは、東郷(とうごう)元帥や乃木(のぎ)大将を素直に慕いました。親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、 家に飾りました。

ボースは「日本はアジアの希望の光だった」とハッキリと語りました。
ボースはこう続けました。「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦布告をしました。日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を下さいました。われわれは自覚し、心から日本に感謝しています。一度(ひとたび)この機会を逃せば、今後一〇〇年以上にわたり、このような機会は訪れることはないでしょう。勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています」

重要なのは、主張より行動でした。ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して六六年目にあたる一九四三年十月、自由インド仮政府が樹立されました。シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。
ボースは「チャロ・デリー」 つまり「デリーへ!」と、 進撃を宣言し、人々はその メッセージを掲げ行進 しました。祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始でした。

インド国民軍INAの将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指し「チャロ・デ リー!」と雄叫びをあげ、進撃しました。「われらの国旗を、レッド・フォートに掲げよ」と、ボースは将兵を激励しました。

自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告をしました。同年(一九四三年)十一月五日より六日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。これは人類の長い歴史において「有色人種によって行われた最初のサミット」となりました。

東條首相、満州国の張景恵(ちょうけいけい)国務総理、中国南京政権の汪兆銘(おうちょうめい)行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理であるワイワイタヤコン殿下と、アジアの首脳が一堂に会し、ボースはインド代表を務めました。

今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が「占領地の傀儡(かいらい)」を集め、国内向け宣伝のために行ったと唱えています。しかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本を売る外国の傀儡(かいらい)というべきです。

会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。ボースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章となることを願う」と訴えました。ボースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。

この五〇〇年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国を植民地支配した壮大なドラマでした。そのなかにあって、日本は前例のない国でした。第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃を提案したのです。

会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、「署名を拒否して帰国する」と言って退室しました。

議長であるアメリカのウィルソン大統領は「本件は平静に 取り扱うべき問題だ」と言って、日本に提案の撤回を求めました。山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕(まきののぶあき)男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めたのです。

イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席一六カ国中一一カ国の小国が賛成し、圧倒的多数で可決されました。しかしウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。牧野は多数決採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は、従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」としました。

人種差別撤廃提案が一一対五の圧倒的多数で可決されたにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬(ほうむ)りました。今日の文明世界では、ありえないことです。いま、アメリカの大統領は黒人ですが、当時ではそのようなことは、まったく考えら れないことでした。日本人も白人ではなく有色民族です。同じ有色民族として誇りある日本人は、白人の有色民族への暴虐を看過することができなかったのです。

インドネシアについても触れておきましょう。インドネシアの植民地支配は、一五九六年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。オランダの三五〇年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、一九四二年の日本軍の進攻によるものでした。

インドネシアには、白馬に跨(また)がる英雄が率いる神兵がやってきて、インドネシアの独立を援(たすけ)てくれるという伝説がありました。日本軍の進攻は、伝説の神兵の到来を思わせました。日本兵は、神話の軍隊であったのです。

ジョージ・カナヘレは「日本軍政とインドネシア独立」という著書で、日本の功績として次の4点を掲げています。

一 オランダ語、英語の使用を禁止。これにより公用語としてインドネシア語が普及した。
二 インドネシア青年に軍事訓練を施(ほどこ)した。これにより青年が厳しい規律や忍耐、勇猛心を植え付けられた。
三 オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身につけさせた。
四 ジャワにプートラ(民族結集組織)やホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、全国に支部を作り、組織運営の方法を教えた。

日本は第二次大戦でアジアの国々を侵略したとされますが、どうして侵略する国が、侵略された国の青年に軍事教練を施すのでしょう。彼らの精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国につくり、近代組織の経営方法を教えることがあるでしょうか。

この事実は、侵略したのが日本でなかったことを証明しています。日本はアジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を 惜しまなかった。では一体、どこからの独立でしょうか。

もちろん、アジアの国々を侵略していた白人諸国の支配からの独立です。
ジャカルタの中心にムルデカ広場があります。ムルデカはインドネシア語で「独立」を意味します。独立の英雄ハッタとスカルノの像とともに、高さ三七メートルの独立記念塔が立っています。地下1階には、独立宣言の実物が納められています。ハッタとスカルノが直筆でサインをしています。そこに独立の日が「一七・八・〇五」とハッキリ書かれています。

一七・八は八月十七日の独立の日を示していますが、「〇五」、〇五年とはどういう意味でしょうか。インドネシア人はイスラム教徒ですからイスラム暦ですが、これはイスラム暦ではありません。ましてやキリスト暦でもありません。では〇五年とは、いったい何暦でしょう。

〇五年は、日本の「皇紀(こうき)」です。一九四五年は、日本の「皇紀」では二六〇五年にあたるのです。初代の天皇である神武天皇が即位して建国をした時から数えた年です。ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。インドネシア独立の生みの親は日本だったのです。だから二人はインドネシアの独立宣言の独立の日を、日本の「天皇の暦」によって祝福したのでした。

皆さん、こうした西欧の五〇〇年に及ぶ植民地支配は、世界中で広く認知されたことであります。われわれは今日、植民地支配の禍(わざわい)の終焉をこうしてここに集い祝福しています。

日本は「日の昇る国」です。真に自由なアジアを求めるみなさんで、手を取り合ってゆきましょう。 民主的なアジアの連帯を実現する重要な役割を、日本が果たすことを願っています。

日がまた昇ることを願って、締め括(くく)ら せていただきます。

Henry S. Stokes

「詩・歌・その言語遊間」さんより転載。

 共感いただければクリックをお願いします。

|

« 国民の努力は報われない(?) | トップページ | 日本のような先進国に外需は必要なのか »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

「日本はアジアの希望の光だった」

・・・これからは「日本こそが世界の希望の光である」というストーリーを構築致しましょう。見えている諸君もいらっしゃるのでしょうね!

・・・自民の三原じゅん子議員が「八紘一宇」という戦前・戦中のスローガンを唐突に国会で持ち出し、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」との発言がありましたが、本当はこれは正しい。白人植民地主義に対して東洋人が団結して強くなりましょう・・・と言うのが基本コンセプト。

ただし反日マスコミとか、いつまでも日本をATM(脅かせばいつでも金が出てくる財布代わりの貢君)にしたいアッチコッチの外国勢にとっては突っ込み所満点の危ない失言。

 八紘一宇とは「全世界を天皇の下にひとつの家のようにする」という意味が込められていますが、先の大戦中には朝鮮半島・台湾の植民地化、中国・東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして喧伝された・・・と日本国内外の反日マスコミと日教組、GHQに洗脳された人がまだまだ残っているのが悲しい現実。

投稿: 当ブログの一ファン | 2015年3月18日 (水) 18時06分

「日本はアジアの希望の光だった」

・・・日本は世界の希望の星なのです。ウィリアム英国王世孫、メルケル・ドイツ首相、潘基文事務総長等のVIPの日本訪問に続いてミシェル・オバマ夫人も訪日が予定されています。日本が国際社会野中で、次世代の重要な役割を担う役割が求められている現実を直視致しましょう。日本国内外の反日勢力さん!覚悟しときなさいね。

投稿: AZ生 | 2015年3月20日 (金) 14時54分

インド独立運動の勇者:チャンドラ・ボースさん率いるインド国民軍は日本軍と共にインパール作戦にてイギリス軍に対して戦いましたが8月18日(ポツダム受諾の3日後)日本陸軍九七式重爆撃機にて移動中、事故で亡くなりました。

BOSEスピーカーってホームシアター用とかライブハウス等で有名ですよね!実はチャンドラ・ボースさん一族のご子孫の方が起業した会社です。

投稿: AZ生 | 2015年3月26日 (木) 15時32分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 国民の努力は報われない(?) | トップページ | 日本のような先進国に外需は必要なのか »