日本軍はあの戦争でいかに戦ったか(後編)
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前回からの続きになります。
ミッドウェイで日本側の慢心と運にも見放されて破れはしたものの日本軍将兵の士気は盛んで激しい戦いはさらに続いていきます。8月にはガダルカナル島攻防の第一次と二次のソロモン海戦が火ぶたを切り死闘が繰り広げられました。
特にガダルカナル島奪回のために上陸を画策する陸軍部隊を支援する形の第二次ソロモン海戦は空母3対3の互角の戦いです。参加艦船数は日本の42隻に対し米側29隻と火力では日本が勝ります。
結果は日本側が空母龍驤を含む二隻が沈没、米側は空母エンタープライズが中破で日本側が苦杯をなめる事に、陸軍による上陸作戦も断念せざるを得なくなりました。
続いて10月、日米共残った空母を全てかき集めての大海戦がソロモン海で繰り広げられます。南太平洋海戦です。日本海軍の布陣は正規空母「瑞鶴」「翔鶴」を中心に二隻の改造空母、戦艦4隻他34隻という大部隊です。
一方の米海軍はと言うと、残存空母のうちワスプを9月に日本の潜水艦による魚雷攻撃で失ったばかりで、サラトガも大破して間がなく、使える空母はエンタープライズとホーネットしかないという惨状です。
他は戦艦一隻と巡洋艦以下が20隻という、日本艦隊との比較では半分に過ぎない陣容です。常識的に考えれば日本圧勝のケースですがハワイのラジオ放送ではなぜか、「近くソロモン方面で大海空戦が行われる。国民に良きプレゼントを送る」とのメッセージが流されていたと言います。
結果は空母翔鶴と瑞鳳が破損したものの日本側艦船の沈没ゼロ、米側は空母ホーネットが沈没、エンタープライズが大破ですから大勝とは言わないまでも、まあまあの戦果ではないでしょうか。特にこの時点で米太平洋艦隊の空母は全て使えない状態になったのですから、そういう点では非常に意味のある勝利と言えます。
(南太平洋海戦)
当然米側は史上最悪の海軍記念日と言って悔しがりました。ミッドウェイでたまたま勝ったからと言ってラッキーが続くと思ったら大間違いです。その時点で日本の勝機は未だ失われていなかったのです。
直後の11月に起きた第三次ソロモン海戦では両軍とも戦艦2隻が中心で、24隻対米側19隻という空母なし砲艦同士の肉弾戦が繰り広げられます。日本軍としては、どうしてもガダルカナル島を奪回したかったのです。
ラバウルからも零戦他の航空隊が攻撃に参加します。未だ零戦が存在感を発揮していた頃でラバウル航空隊が撃墜した米軍機の数は数しれず、名パイロット岩本徹三一人で60機以上を数えたと言いますから半端ありません。
結果は日本側の沈没5大破2、米側沈没9、大破4という事で数の上では勝ったものの、結局ガダルカナル島のヘンダーソン基地を叩けず、そこから飛来する航空機によって日本輸送船団が壊滅状態に陥る事になりました。
その後も小競り合いは続くものの両軍に決定打がなく、時間だけが空しく経過していきます。それが意味する事は日本軍の消耗、米軍の戦力増強です。特に空母建造には力を入れたようで終戦までに107隻(護衛空母含む)も投入されました。
日本海軍の追加空母は15隻ですから、何と92隻も差があります。(笑)航空機もゼロ戦を徹底的に研究した成果が現れて、徐々に劣勢に立たされていったのです。いくら旋回能力が優れていても、倍の馬力には勝てません。
このように、決してミッドウェイ海戦が、巷間言われるようなターニングポイントであった訳ではない事がお分かりいただけると思います。開戦後1年間は互角以上の戦いを続けたものの、結局は物量の差が勝敗を分けたという訳です。
惜しむらくは10月に米空母が太平洋上から消えた時点で、何か決定的な手が打てなかったのか、日本側も空母を多く失ったとは言え開戦から1年以内に4隻を増勢させており残存分と合わせれば真珠湾攻撃以上の7隻体制が組めたのです。
米海軍はと言えば、開戦後1年以内に追加した空母は42年12月のエセックス級1隻のみで後は43年まで待たなければいけない状況だった訳ですから、その間になぜ日本海軍が一気に畳み掛けなかったのか、納得いきません。
いずれにしても米新鋭空母が加速度的に投入される43年以降は勝ち目のない戦いが続き、ひたすら消耗していきます。特に天下分け目の戦いとなった44年6月のマリアナ沖海戦では経験乏しく練度の低いパイロットが操縦する航空機を476機(478機中)も失う事になり完全に勝敗は決したのです。米側の航空機損失、損傷は130機でした。
(43年に現れて零戦の好敵手になったグラマンF6Fヘルキャット 2000馬力エンジン搭載して航続距離も零戦並みだった。)
連合艦隊は空母9隻の内3隻を失い、空母15隻を擁した米側は殆ど無傷ですから、もはや無駄な戦いと言うしかありません。参加艦船数は日本50に対し米108でした。この時点でギブアップすれば310万人もの犠牲者を出さずに済んだと思うとやるせない気持ちになります。
特に80万人の民間人犠牲の大半は死なずに済みました。戦死者にカウントされている餓死、病死者数も戦争末期に集中している筈で、餓死病死160万人の内少なくとも100万人以上は助かっていたと思われます。
さらに戦場となった東南アジア、太平洋地域での地元民犠牲も相当数が助かっていたと思うと、いたずらに引き延ばすべきでなかったのは自明です。もう少しましなやり方はなかったのでしょうか。
特攻隊や玉砕に見る人命軽視は自国民に対してだけでなく外国人に対しても同じようであったのかもしれません。しかし、だからと言って日本軍が傍若無人で血も涙もない軍隊だったかと言えば、それは違います。左翼の喧伝に踊らされてはいけないのです。
例えば反日メディアは日本はアジア諸国を侵略して、多くの犠牲者を出したと決めつけますが、それは明らかにおかしいです。当時のアジア諸国の大半は欧米の植民地だったのです。という事は、日本は欧米諸国に対して戦争をしかけた事になります。
植民地争奪戦をしていた欧米列強は日本に攻められる前300年に渡ってアジアを侵略し暴虐の限りを尽くしていた事実を見逃す訳にはいきません。だからこそ日本は感謝されたのです。特亜三国以外は親日国で占められるという事実は重いです。
反日トリオは自分たちの政治的都合で日本を貶めているだけです。しかもその内容は嘘八百ですからお話しになりません。正しい歴史観に立てばインチキ政権の正当性、存在基盤が失われるので、ありもしない歴史を捏造し、無抵抗の日本を叩いているのです。
さらに戦後米による大掛りな戦争犯罪調査でも日本軍の組織的犯罪は発見されていません。むしろ模範的な軍隊像さえ浮かび上がります。ソ連軍や国民党軍のような野盗の群れとは違うのです。また戦争の名を借りて原爆などで人体実験を行った米軍も人類史上希に見る凶悪犯罪組織でした。それは今も大して変わっていません。
(大東亜共栄圏、その考え方は今でも十分納得ができる)
そもそも欧米列強による野蛮な植民地支配の根底には人種差別があります。有色人種側で欧米列強と互角に戦える最後の希望の星と言われた日本は英米やソ連の脅威から大東亜共栄圏を構想し自衛のための共闘連合、今風に言うとブロック経済を作ろうとしたのです。
だからこそ統治した地域を日本人の血税を使ってまで発展させ、特に朝鮮人、台湾人は同じ日本人として処遇しました。メディアが言うような過酷な植民地支配、一方的収奪ならその共栄圏構想に反する事は明白です。
日本が戦争を決意したのはそういう時代背景があったからで、ハルノートはひとつのきっかけに過ぎません。人類史という大きな視点で俯瞰すれば避けられない戦いだったのかもしれないのです。しかもその結果は有色人種に自由をもたらしました。
つまり右翼がよく言う正義の戦争とまでは口幅ったくて言えないものの、自衛の為のやむを得ない戦争だったという側面まで否定する事は出来ません。誰かが戦わななければ有色人種の人権が尊重される時代は来なかったのです。
日本が死にものぐるいで戦い、多大な損害を連合国側に与えた事で植民地支配が割に合わないものだという事を知らしめ、またアジアアフリカ諸国には独立の気概が芽生えたのです。その功績は決して小さなものではありません。
ところが、そういう都合の悪い事実を封印したい欧米は自分たちの黒歴史はなかったかの様に特亜三国に同調する形で日本に歴史修正主義者のレッテルを張ろうとします。日本メディアまでが彼らの意のままのようです。
最近になりようやくその事実に気付いた一部良識ある白人による日本擁護はあるものの、肝心な日本政府のスタンスが今一中途半端なので焼け石に水状態と言えます。良識ある日本国民のストレスは溜まりに溜まっているのです。
ともあれ、目障りな希望の星には濡れ衣が着せられるものです。それに屈せず事実は事実として真摯に受け止め、プライドを持って生きるべきです。幸いな事に日本のプレゼンスは戦争なし、最小の軍隊でも増しています。それは技術力、文化力の賜物ですが、いたずらにグローバル化を進めなかった事も大きいと思われます。
日本産業界はそのあたりの分析をきちんとして、今後の方向性を見極めなければなりません。特に指導者に人材を欠くと言われる日本型組織の改革は必須ですが、グローバル化のための構造改革を押し進める政府に何も期待は出来ないという悩ましさがあります。
結局最後はそこになりました。(笑)例によって竜頭蛇尾となりましたが、まずお互い真実を知る事から始めましょう。
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コメント
ペリリュー島の守備隊長中川大佐も、もっと早く降伏していれば多くの将兵を死なせずにすんだのにと後悔しているそうです。これはちょっと信じられないかもしれませんが、ある霊能力のある人がペリリュー島での慰霊の際の大佐の魂からのメッセージだそうです。我々にもなんとも言えない悲しさが伝わります。
話は変わりますが先日朝鮮総連に関する桜の討論を見ましたが、日本の敗戦による病根の深さにあらためて認識しました。安倍総理は日本を取り戻すと言っていましたが、それはまずは正しい歴史認識、特に大東亜戦争を正しく認識しなければなりませんね。
投稿: 八丈島 | 2019年8月19日 (月) 12時47分
田中様 有難うございます
私の知っているのは真珠港からミッドウエイくらいまでで、その後の状況には不案内でした。でも今回の記事で蒙を啓かせていただきました。有難うございました。
今まで山本五十六愚将論などを読んでいて目が曇っていたこともあったと思われます。ただ、日露戦争時と違い有事の人事が硬直化していて、適材適所の人事ができなかったのではないかと疑っています。
今、102歳の母の調子が良くないので落ち着いたらゆっくり書かせていただきます。
投稿: ナベ | 2019年8月22日 (木) 11時26分
人事の硬直、官僚主義、長い歴史を持つ日本では物事の変更に時間もエネルギーもかかるのでしょう。この反省が全くできていない今も財務官僚による日本支配です。
ナベ様、私も母の介護で東京から週末は大阪へと往復しています。102歳とはすばらしいです。悔いのない介護をしてください。
投稿: 八丈島 | 2019年8月22日 (木) 15時14分
ナベさま、八丈島さま
横から失礼します。田中さんのブログと全く関係ない話で恐縮ですが、私も両親共倒れし、2人の介護をしています。急に生活が180度変わってしまい色々大変でした。最近やっと息ができるようになりました。
投稿: 女性読者 | 2019年8月24日 (土) 23時42分