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2022年6月20日 (月)

天皇家の皇祖神の正体

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---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---

 
 前々回、宇佐神宮に祀られている比売大神は百済系渡来人に滅ぼされた海人族である卑弥呼の事であり、それ故に祟りを恐れた百済系天皇家が手厚く宇佐神宮に祀ったのであって、決して主祭神としての扱いではなかったと書きました。

実際にそういう事を言っている歴史学者もいるので、大した根拠もなくその考えを否定するつもりはありません。しかしながら今回全く正反対の事を言っている識者がいるのを知りました。

そこで早速ですが、この件を掘り下げてみたいと思います。つまり、今の天皇家が主祭神として崇めているのは、ルーツが同じである応神天皇ではなく、比売大神(卑弥呼=天照大神)の方かもしれないと言うのですが、その根拠は何でしょうか。

日本神話によると天照大神は素戔嗚の乱暴な素行に耐えかねて天の岩戸にお隠れになります。その結果世界が暗くなる(皆既日食)のですが、何とか明るさを取り戻したいと願う臣下達が侃侃諤諤一計を案じます。

結論としては天鈿女命の裸踊りを採用するのですが、バカ騒ぎに何事かと顔を出した瞬間、力持ちが天岩戸をこじ開けて天照大神を引きずり出すというシナリオでした。かくして明るい世界が戻るのですが、どこかで聞いたような話です。

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日本語で「隠れる」は皇族の死を意味する場合があるのはよく知られています。つまり、この話はキリストの死と三日後の再臨をイメージさせるのです。再臨の日付も12月25日と暗示的です。そこで考えなければいけないのは、この神話は誰によっていつ頃書かれたかです。

古事記は元明天皇の時代、天武天皇の命を受けた太安麻呂によって編纂された事は分かっています。時期は7世紀後半から準備され712年(諸説ある)に完成を見ました。内容は神話も含めた初代から推古天皇までの天皇家の歴史です。しかしそれは渡来人達が400年以上も昔の出来事を熟知していなければ書けない内容なのです。

さらに言えば、キリストの死と復活劇をも知っていた可能性があります。いくら有名なキリストとは言え、通信手段の貧困な時代、現地とは数万キロも離れているのですから、知っていた人は先祖代々のキリスト教信者か関係者以外には考えられません。

日本で言えば空海のように、海外で修行をしてきた宗教家であれば分からないでもありませんが、古事記編纂に携わった稗田阿礼も太安麻呂も、日本書紀の舎人親王も、また改竄を指示出来る立場にあったと言われる藤原不比等にもそういう経歴はなさそうです。

ところでその空海ですが、遣唐使として唐で仏教を学んできたのは周知の通りです。結果的には真言密教として日本に伝えました。ただ、その真言密教ですが、どうも匂うのです。景教の影響を強く受けているのではないかという説があります。

景教とは当時中国で長安を中心に布教されていた、ネストリウス派のキリスト教の事です。つまり遣唐使として唐を訪れた空海が現地で景教を学んだのだとすれば、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にやって来る700年も前に、キリスト教は、表向きは仏教として日本に伝わっていた事になるのです。

しかし、記紀が編纂されたのは空海が唐から真言密教を伝える前です。さて、分からなくなりました。(笑)という事は、キリストの話はやはり渡来人自身がよく知っている話かもしれないのです。それも自国の神話に盗用するのですから、また聞き程度とは思えません。

つまり3世紀あたりから断続的に渡来して来た弥生人のルーツは東アジアではないという説が真実味を帯びて来るのです。応神天皇やその子、仁徳天皇の古墳が旧約聖書に出て来る三種の神器の一つであるマナの壺の形をしているのは前回述べました。

さらに伊勢神宮にあると言われる八咫鏡には「ありてあるもの」という言葉がヘブライ語で書かれていて、それはイスラエルの民を従え40年の放浪の旅に出たモーセが、神にその名を問うた時に、神が「私はありてあるもの」と答えたところから来ていると言うのですからびっくりです。

この話は旧約聖書に書かれていて、ユダヤ教徒や原始キリスト教徒はそれをバイブルとしていたのです。ご存知のようにキリスト教はユダヤ教から派生しました。従って三位一体の「父と子と精霊」の子はキリストで、父とはヤハウェを指します。

話は空海に戻りますが、驚いた事に真言密教でも僧侶は袈裟の中で十字を切ると言うのです。それは「父と子と精霊の御名によってアーメン」と唱和しているのではないかと思わせます。やはり空海がネストリウス派キリスト教を学んで来たと言うのは事実かもしれません。

それを裏付ける唄があります。空海によって作られたと言う「いろは唄」には重大な秘密が隠されていたのです。

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最下段を右から左へ読むと「とかなくてしす」(咎なくて死す)と読めます。イエス・キリストは何の罪(咎)も犯さないのに人々の罪を一身に背負って死刑になりました。次に最上段を右から読むと「いちよらやあゑ」(一張羅ヤハウェ)となりますが、これは最高神ヤハウェを意味するのです。

また右上、左上、左下と隅を読んでいくと「いゑす」(イエス)となりますから、この唄はよく出来ています。全てキリスト教に通ずるフレーズなのです。つまり、論理の飛躍かもしれませんが、天皇家の皇祖神である天照大神とは、ひょっとするとキリストと同格の神様かもしれないのです。あるいはキリストそのもの?

さらに真言宗の大日如来、仏教の弥勒菩薩も原点が太陽神で同じとすれば、宗教に関する様々な謎が氷解していきます。各宗教にある再来や再臨、あるいは輪廻転生がキーワードとなるのです。

百済系渡来人扶余や、それとほぼ同族の秦氏、あるいは天照大神をどうしても女神にする必要に迫られた持統天皇が宗像3女神である比売大神(卑弥呼)にキリストのイメージを投影し、隠れた信仰の対象としたのではないでしょうか。だからこそ宇佐神宮を最高格の神社として重用したのです。

ところで宇佐神宮が採用している参拝作法の二拝四拍手一拝は出雲大社と宇佐神宮だけだそうです。諸説あるようですが、非業の死を遂げた神様に対しては通常の二拍手から四拍手になると言うのです。出雲大社の主祭神大国主命は天孫族に滅ぼされ国譲りをしたと思われるので、その考え方に無理がありません。

宇佐に祀られる応神天皇も蘇我氏系と思われるので乙巳の変で継体天皇系扶余族に滅ぼされた経緯があり、やはり悲劇の大王家と言えます。しかし狗奴国(大和)との戦いに苦戦し、その責任を取らされて殺されたと言う(岩戸に隠れた)卑弥呼もまた、非業の死を遂げているのです。

ところで疑問が湧くのですが、同じ天照大神が祀られているという伊勢神宮内宮は二拝二拍手一拝です。さらに歴代天皇のほとんどが参拝されません。なぜそこまで冷遇されるのか謎は尽きませんが、そのヒントは斎宮にありそうです。

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天武天皇の時代に、祟りを恐れる天皇家は鎮魂のため内親王あるいは女王を斎王(巫女)として伊勢に常駐させて奉仕させる制度を確立させました。そのための施設が斎宮で、その従事者が500人という大所帯だったようです。斎王はひたすら祈りを捧げるだけの毎日で、一人の乙女として恋をすることも許されません。

そこまで恐れるというのは余程の事と思われます。しかし、その対象が天照大神というのは解せないのです。自らの皇祖神をなぜそこまで恐れるのか・・穿った見方をするならば、主祭神天照大神というのは隠れ蓑で、実は他の神様なのではないでしょうか。

そう考えた時に、真っ先に思い浮かぶのは百済系天孫族(天津神)に国を譲らされた出雲族の国津神、大国主命です。この神は三輪山の大物主、あるいは神武天皇が大和で滅ぼした元祖天孫族の饒速日と同一人物と言う説があります。それなら腑に落ちるのですが、参拝作法が普通の二拝二拍手一拝なのが引っかかります。

いずれにしても、身内の姫を差し出すのですから、相手は相当な大物である事は間違いありません。伊勢神宮内宮のスケールもそれに見合ったものとなっています。ところで内宮と言えば外宮なのですが、外宮に祀られているのは卑弥呼の跡を継いだ卑弥呼の宗女台与ではないかと言われています。

表向きは豊受大神となっていますが、天照大神の衣食住の世話をしていたと言われているので、卑弥呼に対する台与と考えれば無理はありません。では内宮外宮はその通りの組み合わせなのかと言えば、前述のようにそれを否定する説も存在するのです。

台与は卑弥呼亡き後、邪馬台国(倭国)女王として君臨した事になっていますが、実際は不幸な人生を送ったようです。前述の否定説によると二回りも三回りも差がある大国主の妻にさせられたと言うのです。これならストンと腑に落ちます。(笑)

つまり伊勢神宮はいつの間にか大国主と台与のための神社となっていたのです。それじゃ天皇が行かない筈だし、四拍手もない訳です。だって年中、未婚女性である斎王の奉仕を受けて、さらに元愛妻と同居に近い待遇という十分な扱いをしている訳ですから、そこに落ち度はない訳です。

しかしそうなると宇佐神宮の方も考え直さなければならないかもしれません。比売巫女は卑弥呼で決まりだとしても、応神天皇と神功皇后が怪しくなって来るのです。女傑エピソード等でその存在に疑問符がつく神功皇后は実は創作の産物で台与の事ではないかと言う説が頭をもたげて来ます。

もし神功皇后が台与なら、応神天皇とされている祭神はその息子と言うより、夫であった大国主かもしれないのです。しかしそれでは3人とも百済系渡来人の敵という事になります。よく分からなくなって来ました。

この件、もう少し深掘りをする必要がありそうです。いずれにしても簡単に答えが出るとは思えません。確度の高い新情報の出現を待ちたいと思います。

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