百済系渡来人による日本乗っ取り(後編)
---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---
(余程ビビっていたと見えて、短期間に作った水城は大掛かりなものだったようだ。下の画像が現在残る水城跡)
ところで、この防衛施設が完成したのは記紀によると664年とされていますが、それは妙です。敗戦後に工事を始めたのでは、とてもじゃないけど1年では不可能です。
これより規模が遥かに小さい大山古墳でさえ大林組の試算によると二千人の作業者で15年かかると言います。しかも太宰府の周囲に51キロにも及ぶ大城壁(土塁?)まで出来ているのですから、1年や2年の工期でないのは自明です。
常識的に考えれば敗戦の前に完成していたと考えるべきです。敗戦後は唐から戦後処理のための使者郭務悰(WW2で言えばマッカーサー?)が二千人と言われる占領部隊(GHQ?)を引き連れて太宰府に来ており、その眼前で防衛施設が作れる筈もないのです。
従って記紀の記述は信用出来ず、7年のずれがあると言う最近の解釈が信憑性を増します。記紀はこの7年に何かを隠したのです。天皇の出自を誤魔化すためか?
(万里の長城には遠く及ばないが、周囲に城壁をめぐらせたという事実は何を物語る?NHKの正月番組ブラタモリで取り上げた太宰府の羅城。)
さらに、なぜ地方都市の一つでしかない太宰府に、かくも大掛かりな防衛施設を築いたのかというのも疑問です。京都や奈良にはその形跡がないのにも拘らずです。と言う事は、実は太宰府は日本の首都だったのかもしれません。天智天皇の居城はそこにあって采配を振るっていたのではないでしょうか。
さて、唐からの戦争責任を問われる張本人の天智天皇ですが、667年に近江に逃れたり忙しい日々を送っていたと言います。結局は責任を旧大和国になすりつけたか、上手くかわす事が出来たようです。
前述のように669年には落馬で治療中の中臣鎌足を見舞い、大織冠と藤原姓を授けているのです。大織冠は自分(豊璋)にも与えていますが、中大兄皇子=豊璋とされるのを避ける方便だったのかもしれません。
話は遡りますが、中臣姓、藤原姓というのは記紀には出てきません。中臣という姓はある調査によると、元々は卜部という神職についており皇室の政治に関与する地位にあったと言います。
興味深いのは5世紀に大陸から亀卜(占い)をもたらした帰化人を国造(クニノミヤツコ)中臣氏の成立と共に支配下に置いたと言う「中臣本系帳」の記述です。
そうなると邪推かもしれませんが、背乗りの可能性が頭をもたげます。改竄可能な立場にあった記紀に中臣家を大化の改新まで登場させないのは、書くべき事が何もなかったからなのかもしれません。大化の改新以降の立場を有利にする改竄は可能でも、ない歴史をゼロから作る事は難しいのです。
そこで気になるのが大陸から伝来したと言う、亀の甲羅で占いをする「亀卜」です。大陸とはこの場合おそらく朝鮮半島を指します。それはそれまでの日本になかった事を意味するし、霊媒師として故人や神の声を代弁していたと言う卑弥呼の鬼道などとも趣を異にします。
いやいやこれはまた驚きの新発見です。現在の天皇家が行う皇位継承の一大行事である大嘗祭用の供物の米を選ぶのは亀卜による、とされています。しかし、その亀卜は5世紀までは日本になかったのです。それまでの天皇家の占いは亀ではなく鹿などの動物の骨を使っていたと言います。
と言う事は、天皇家のルーツはそれ以前日本に存在していた天皇家とは別系統かもしれないのです。これはまたすごい話ではないでしょうか。亀卜のルーツは秦の前身と言われる殷だそうですが、殷の末裔と思われる徐福の、鬼道ベースの道教とは別物のようだし、謎が深まります。
いずれにしても今回はっきりしたのは百済系渡来人によって645年に大和は乗っ取られたという事実です。ただ、天智天皇崩御後壬申の乱で蘇我氏(天武天皇)側が捲土重来を果たし、皇位を取り戻したのも確かなので、百済の血統が今日にまで至っているかどうかは不明です。
一つ言える事は、一時的に没落した藤原氏が文武天皇に不比等の長女(宮子)を嫁がせる事により重要なポジションに返り咲いているので、百済系が朝廷の敵として全て排除された訳ではないようです。むしろ上手く大和国、いや日本国に溶け込んでいったのです。天武天皇としてもその方が好都合だったのでしょうか。
だからこそ、その後血で血を洗う皇位継承者争いが後を絶たなかったのです。祟りを恐れた勝者側によって日本国中に建立された鎮魂のための神社がそれを物語ります。
もちろん後ろで糸を引いていたのは藤原氏で、藤原京(学術用語)に藤原宮(皇居)まで作るのですから、大したものです。その後ろめたい気持ちがあるから、自分の墓は目立たないようにしたのかもしれません。
まとめ
1)藤原鎌足は百済からの渡来人で、同じく百済王族の豊璋と組んで日本でクーデターを起こし、大和を乗っ取った。(大化の改新)その後大海人皇子の逆襲に遭うが、この事を壬申の乱と乗っ取った側が言うのはおかしい。
乱とは秩序破壊あるいは反逆を意味するので、正当性のある側が起こした原状回復の戦いは乱ではなく聖戦、あるいは平定、鎮圧である。不比等は記紀で乱という言葉を使ったが、自分達に正当性があると言いたかったのだろう。
2)今の天皇家は大嘗祭などで亀卜を行なっていると言うが、それが日本に入ったのは5世紀である。と言う事は神武天皇以降5世紀までの天皇の血統と同じである可能性は低いと言わざるを得ない。
3)7世紀の大和国の首都は東アジア最大の羅城と言われた太宰府であり、北九州が大和国の中心であった事が窺える。水城の成立年代を調べるために行なわれた三層の敷粗朶(シキソダ)の放射性同位体(C14)によると、240年、430年、660年が検出されており、卑弥呼の時代に既に水城が存在していたようだ。660年は補強工事だったかと思われる。
4)水城の成立年が意味するのは邪馬台国はやはり北九州にあったという事で、太宰府はその後も継続して日本の中心だった可能性が高い。3世紀に「倭は国のまほろば」と詠んだ日本武尊(ヤマトタケル)が見た倭の風景は畿内ではなかった。「たたなずく青垣、山籠れる 倭し麗し」と続く文言からはどちらとも取れる。
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