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2022年7月

2022年7月 8日 (金)

百済系渡来人による日本乗っ取り(後編)

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---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---

 
 前回からの続きになります。

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(余程ビビっていたと見えて、短期間に作った水城は大掛かりなものだったようだ。下の画像が現在残る水城跡)

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ところで、この防衛施設が完成したのは記紀によると664年とされていますが、それは妙です。敗戦後に工事を始めたのでは、とてもじゃないけど1年では不可能です。

これより規模が遥かに小さい大山古墳でさえ大林組の試算によると二千人の作業者で15年かかると言います。しかも太宰府の周囲に51キロにも及ぶ大城壁(土塁?)まで出来ているのですから、1年や2年の工期でないのは自明です。

常識的に考えれば敗戦の前に完成していたと考えるべきです。敗戦後は唐から戦後処理のための使者郭務悰(WW2で言えばマッカーサー?)が二千人と言われる占領部隊(GHQ?)を引き連れて太宰府に来ており、その眼前で防衛施設が作れる筈もないのです。

従って記紀の記述は信用出来ず、7年のずれがあると言う最近の解釈が信憑性を増します。記紀はこの7年に何かを隠したのです。天皇の出自を誤魔化すためか?

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(万里の長城には遠く及ばないが、周囲に城壁をめぐらせたという事実は何を物語る?NHKの正月番組ブラタモリで取り上げた太宰府の羅城。)

さらに、なぜ地方都市の一つでしかない太宰府に、かくも大掛かりな防衛施設を築いたのかというのも疑問です。京都や奈良にはその形跡がないのにも拘らずです。と言う事は、実は太宰府は日本の首都だったのかもしれません。天智天皇の居城はそこにあって采配を振るっていたのではないでしょうか。

さて、唐からの戦争責任を問われる張本人の天智天皇ですが、667年に近江に逃れたり忙しい日々を送っていたと言います。結局は責任を旧大和国になすりつけたか、上手くかわす事が出来たようです。

前述のように669年には落馬で治療中の中臣鎌足を見舞い、大織冠と藤原姓を授けているのです。大織冠は自分(豊璋)にも与えていますが、中大兄皇子=豊璋とされるのを避ける方便だったのかもしれません。

話は遡りますが、中臣姓、藤原姓というのは記紀には出てきません。中臣という姓はある調査によると、元々は卜部という神職についており皇室の政治に関与する地位にあったと言います。

興味深いのは5世紀に大陸から亀卜(占い)をもたらした帰化人を国造(クニノミヤツコ)中臣氏の成立と共に支配下に置いたと言う「中臣本系帳」の記述です。

そうなると邪推かもしれませんが、背乗りの可能性が頭をもたげます。改竄可能な立場にあった記紀に中臣家を大化の改新まで登場させないのは、書くべき事が何もなかったからなのかもしれません。大化の改新以降の立場を有利にする改竄は可能でも、ない歴史をゼロから作る事は難しいのです。

そこで気になるのが大陸から伝来したと言う、亀の甲羅で占いをする「亀卜」です。大陸とはこの場合おそらく朝鮮半島を指します。それはそれまでの日本になかった事を意味するし、霊媒師として故人や神の声を代弁していたと言う卑弥呼の鬼道などとも趣を異にします。

いやいやこれはまた驚きの新発見です。現在の天皇家が行う皇位継承の一大行事である大嘗祭用の供物の米を選ぶのは亀卜による、とされています。しかし、その亀卜は5世紀までは日本になかったのです。それまでの天皇家の占いは亀ではなく鹿などの動物の骨を使っていたと言います。

と言う事は、天皇家のルーツはそれ以前日本に存在していた天皇家とは別系統かもしれないのです。これはまたすごい話ではないでしょうか。亀卜のルーツは秦の前身と言われる殷だそうですが、殷の末裔と思われる徐福の、鬼道ベースの道教とは別物のようだし、謎が深まります。

いずれにしても今回はっきりしたのは百済系渡来人によって645年に大和は乗っ取られたという事実です。ただ、天智天皇崩御後壬申の乱で蘇我氏(天武天皇)側が捲土重来を果たし、皇位を取り戻したのも確かなので、百済の血統が今日にまで至っているかどうかは不明です。

一つ言える事は、一時的に没落した藤原氏が文武天皇に不比等の長女(宮子)を嫁がせる事により重要なポジションに返り咲いているので、百済系が朝廷の敵として全て排除された訳ではないようです。むしろ上手く大和国、いや日本国に溶け込んでいったのです。天武天皇としてもその方が好都合だったのでしょうか。

だからこそ、その後血で血を洗う皇位継承者争いが後を絶たなかったのです。祟りを恐れた勝者側によって日本国中に建立された鎮魂のための神社がそれを物語ります。

もちろん後ろで糸を引いていたのは藤原氏で、藤原京(学術用語)に藤原宮(皇居)まで作るのですから、大したものです。その後ろめたい気持ちがあるから、自分の墓は目立たないようにしたのかもしれません。

まとめ

1)藤原鎌足は百済からの渡来人で、同じく百済王族の豊璋と組んで日本でクーデターを起こし、大和を乗っ取った。(大化の改新)その後大海人皇子の逆襲に遭うが、この事を壬申の乱と乗っ取った側が言うのはおかしい。

乱とは秩序破壊あるいは反逆を意味するので、正当性のある側が起こした原状回復の戦いは乱ではなく聖戦、あるいは平定、鎮圧である。不比等は記紀で乱という言葉を使ったが、自分達に正当性があると言いたかったのだろう。

2)今の天皇家は大嘗祭などで亀卜を行なっていると言うが、それが日本に入ったのは5世紀である。と言う事は神武天皇以降5世紀までの天皇の血統と同じである可能性は低いと言わざるを得ない。

3)7世紀の大和国の首都は東アジア最大の羅城と言われた太宰府であり、北九州が大和国の中心であった事が窺える。水城の成立年代を調べるために行なわれた三層の敷粗朶(シキソダ)の放射性同位体(C14)によると、240年、430年、660年が検出されており、卑弥呼の時代に既に水城が存在していたようだ。660年は補強工事だったかと思われる。

4)水城の成立年が意味するのは邪馬台国はやはり北九州にあったという事で、太宰府はその後も継続して日本の中心だった可能性が高い。3世紀に「倭は国のまほろば」と詠んだ日本武尊(ヤマトタケル)が見た倭の風景は畿内ではなかった。「たたなずく青垣、山籠れる 倭し麗し」と続く文言からはどちらとも取れる。

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2022年7月 4日 (月)

百済系渡来人による日本乗っ取り(前編)

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---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---

 過去記事「天皇家の血統(万世一系は本当か?」の中で「中大兄皇子こと扶余勇、中臣鎌足こと扶余豊璋が645年に大化の改新、乙巳の変を起こし、蘇我氏や聖徳太子一族を滅ぼしました。」と書きましたが、実際は扶余豊璋の方が中大兄皇子だったかもしれません。その場合中臣鎌足は豊璋とは直接血の繋がりのない百済王族「翹岐」という事になるようです。

先日ネットで、たまたま帝塚山大学考古学研究所が作った動画を観ていると阿武山古墳の話をしていました。1934年に京都大学によって偶然発見されたこの古墳は、天皇の古墳とは違って、規模も小さく目立たなくする事が目的かと思えるほどの地味なものだったようです。

大きな石で囲まれた墓室の中には黒い漆塗りの棺があり、中の様子も確認されたのですが、111日後に内務省の指示で元の状態に戻されたと言います。戦前の話ですから色々不都合な事があったのかもしれません。

時は半世紀近く流れて1982年、国立大にはよくあると言う京大の「開かずの間?」でこの件に関する貴重な資料が発見されました。当時のレントゲン写真他の資料ですが、それらを分析した結果は驚くようなものだったのです。

それによると被葬者の右肘の関節が変形していて、肋骨も数本折れている事が分かりました。さらに背骨に圧迫骨折痕が見られるので、大きな事故にでも遭ったのかもしれません。それを見た整形外科医の分析は以下のものです。

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(右の小さい画像が健常人の肘)

当たり前のように「この人はテニスプレイヤーですね?」と言われたそうです。右肘を長年酷使している場合、そういう例が多いと言います。肋骨の骨折に関しては死後ではなく、骨折後3ヶ月は生存していた形跡があると言うのです。棺や副葬品などからAD7世紀頃のものだと分かっていたので、流石にテニスプレイヤーというのはあり得ません。

その副葬品ですがレントゲン写真を精査した結果、金糸の刺繍のある烏帽子のようなものが確認されました。それをさらに掘り下げていくと、どうも当時朝廷から功労者に与えられた大織冠という冠に行き着くのです。(下の画像参照)

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(手前の緑色の物も副葬品で、玉枕と言う。日本にはなかった高度なガラス成形技術で作られている。被葬者の出自を窺わせる。)

大織冠を授かった人は日本広しと言えども二人しかいません。藤原鎌足と、当時人質として朝廷が百済王から預かっていた王子、扶余豊璋だと言うのですからビックリです。思わぬ大物が掘り当てられたようです。

当時百済が日本(倭国)の領土である任那を度々侵していて、蘇我馬子大王は頭を痛めていたと言います。そこで蘇我入鹿大王の時に百済武王の息子二人を人質として差し出させました。豊璋と弟の塞上ですが、二人は入鹿大王の子である大海人皇子(後の天武天皇)と共に分け隔てなく育てられたと言うのです。

その後豊璋は中大兄皇子と名乗りますが、その時期は不明です。6歳で人質となった豊璋は18歳の時(643年)に法興寺で催された蹴鞠の会で中臣鎌足)と出会い、意気投合して乙巳の変を企てるのですが、お互いが百済人であることを知っていたからこそではないでしょうか。これは偶然とは言い難く、岐が仕組んだ出会い劇ではないかと思われます。つまり豊璋は最初から意中の人だったのです。

岐は百済からの島流しという口実でその3年前に日本にある目的を持って上陸していました。当時百済からの難民や亡命者が多く、その殆どは不純な目的と解釈され追い返されていたそうです。つまりその時代の大和政権は百済に対しては優位な立場にあって何の義理もなかったと思われます。

という事は4〜5世紀に渡来して崇神王朝の済に入婿したと言われる百済王族の昆支(応神天皇)を祖とする蘇我氏のルーツは、新羅経由の秦氏系である可能性もないとは言い切れません。

あるいは王子の大海人と言う名からすれば安曇氏系なのか?因みに天武天皇の妃の一人は尼子娘と言って海人族(安曇氏系)である事は一目瞭然です。これは天皇系のルーツに関する核心に迫る大問題ですが、解明するには宮内庁という難関が立ち塞がります。

いずれにしても新規渡来人が先住渡来人政権を倒そうとしたのは間違いありません。しかもそれは成功しました。大化の改新と大見得を切るくらいですから大成功だったのです。だからこそ、この二人が百済系新政権(大和朝廷)から大織冠を授かる訳です。

点と線がつながってきました。ところで中臣鎌足は弓の名手だったと言います。しかも藤氏家伝によると狩の途中落馬して重症を負ったと言うではありませんか。どこかで聞いたような話です。

落馬後3ヶ月は生存しましたが、天智天皇から大織冠を授かる1日後に亡くなったと言うのですから、阿武山古墳の被葬者の遺骨の分析結果と見事に合致して来るのです。テニスエルボーはボウエルボーだったのです。

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大化の改新として我々が散々見せられて来た犯行現場イラスト(江戸時代に描かれたというが、事実とは異なるようだ・上の画像参照)を見ても中臣鎌足は弓を持って控えているように見えます。

首を刎ねているのが豊璋(中大兄皇子)で、刎ねられたのが蘇我入鹿大王です。後方に見えるのは皇極天皇と言われていますが、中大兄皇子の母親という触れ込みです。

点と線が繋がり、さらにそれが時空を越え、クリアな面として見えた瞬間でした。渡来人テロリスト藤原鎌足は1353年前に確かに存在していて、大化の改新の功績を認められ大織冠を授かったのは紛れもない事実なのです。この重大発見はなぜか日の目を見ていません。

ところでテロ実行犯の片割れ扶余豊璋ですが、父である武王が死亡し百済が唐との戦いに敗れた後の661年に次期大王を請われて百済に戻っています。それも5000人の大和軍護衛部隊を引き連れてというのですから、その扱いはやはり次期大王級です。

その後豊璋は行方をくらまします。そもそも衰退して周りを敵に囲まれた国の大王になるつもりはなかったのです。高句麗にいたところを唐軍に見つかり、唐へ連行されたという説もありますが、おそらくそれは実兄?で事実は中大兄皇子に成り代わって大和へ戻って来たと思われます。

しかしながら故国への想いは強かったのか、あるいは660年の敗戦で大挙亡命してきた王族、貴族らに押されてか、663年の白村江の戦いに大和から大軍を送る事になります。およそ5万と言われる大和軍を推定千隻の軍船で三波に分けて派兵するのですからすごい話ではないでしょうか。

その当時の日本の人口は400〜500万人程度だと思われますから、今の人口比で言えば25倍、120万に相当します。それらを乗せるだけの船があった事だけでも驚きですが、援軍として海外まで大軍を送って勝てる見込みのない戦争をするというモチベーションが理解不能です。肝心な支援先の百済には敗残兵しか残っていないのです。

対する唐・新羅連合軍は18万とも言われますが、水軍は七千人程度と大した数ではなかったようです。それにも拘らず、突撃しか能のない大和軍はたちまち400隻余りを失いあっさりと敗退する事になりました。

その責任はもちろん後の天智天皇である中大兄皇子にありますが、唐からの追求を逃れるために烽火・防人を設置し太宰府には水城等、大規模城壁を築いた事は歴史的事実として今も残る遺跡が証明しています。

長くりましたので続きは次回とさせて下さい。

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