百済系渡来人による日本乗っ取り(前編)
---ワクチンを打つ打たないを決めるのは個人の権利---
先日ネットで、たまたま帝塚山大学考古学研究所が作った動画を観ていると阿武山古墳の話をしていました。1934年に京都大学によって偶然発見されたこの古墳は、天皇の古墳とは違って、規模も小さく目立たなくする事が目的かと思えるほどの地味なものだったようです。
大きな石で囲まれた墓室の中には黒い漆塗りの棺があり、中の様子も確認されたのですが、111日後に内務省の指示で元の状態に戻されたと言います。戦前の話ですから色々不都合な事があったのかもしれません。
時は半世紀近く流れて1982年、国立大にはよくあると言う京大の「開かずの間?」でこの件に関する貴重な資料が発見されました。当時のレントゲン写真他の資料ですが、それらを分析した結果は驚くようなものだったのです。
それによると被葬者の右肘の関節が変形していて、肋骨も数本折れている事が分かりました。さらに背骨に圧迫骨折痕が見られるので、大きな事故にでも遭ったのかもしれません。それを見た整形外科医の分析は以下のものです。
(右の小さい画像が健常人の肘)
当たり前のように「この人はテニスプレイヤーですね?」と言われたそうです。右肘を長年酷使している場合、そういう例が多いと言います。肋骨の骨折に関しては死後ではなく、骨折後3ヶ月は生存していた形跡があると言うのです。棺や副葬品などからAD7世紀頃のものだと分かっていたので、流石にテニスプレイヤーというのはあり得ません。
その副葬品ですがレントゲン写真を精査した結果、金糸の刺繍のある烏帽子のようなものが確認されました。それをさらに掘り下げていくと、どうも当時朝廷から功労者に与えられた大織冠という冠に行き着くのです。(下の画像参照)
(手前の緑色の物も副葬品で、玉枕と言う。日本にはなかった高度なガラス成形技術で作られている。被葬者の出自を窺わせる。)
大織冠を授かった人は日本広しと言えども二人しかいません。藤原鎌足と、当時人質として朝廷が百済王から預かっていた王子、扶余豊璋だと言うのですからビックリです。思わぬ大物が掘り当てられたようです。
当時百済が日本(倭国)の領土である任那を度々侵していて、蘇我馬子大王は頭を痛めていたと言います。そこで蘇我入鹿大王の時に百済武王の息子二人を人質として差し出させました。豊璋と弟の塞上ですが、二人は入鹿大王の子である大海人皇子(後の天武天皇)と共に分け隔てなく育てられたと言うのです。
その後豊璋は中大兄皇子と名乗りますが、その時期は不明です。6歳で人質となった豊璋は18歳の時(643年)に法興寺で催された蹴鞠の会で翹岐(中臣鎌足)と出会い、意気投合して乙巳の変を企てるのですが、お互いが百済人であることを知っていたからこそではないでしょうか。これは偶然とは言い難く、翹岐が仕組んだ出会い劇ではないかと思われます。つまり豊璋は最初から意中の人だったのです。
翹岐は百済からの島流しという口実でその3年前に日本にある目的を持って上陸していました。当時百済からの難民や亡命者が多く、その殆どは不純な目的と解釈され追い返されていたそうです。つまりその時代の大和政権は百済に対しては優位な立場にあって何の義理もなかったと思われます。
という事は4〜5世紀に渡来して崇神王朝の済に入婿したと言われる百済王族の昆支(応神天皇)を祖とする蘇我氏のルーツは、新羅経由の秦氏系である可能性もないとは言い切れません。
あるいは王子の大海人と言う名からすれば安曇氏系なのか?因みに天武天皇の妃の一人は尼子娘と言って海人族(安曇氏系)である事は一目瞭然です。これは天皇系のルーツに関する核心に迫る大問題ですが、解明するには宮内庁という難関が立ち塞がります。
いずれにしても新規渡来人が先住渡来人政権を倒そうとしたのは間違いありません。しかもそれは成功しました。大化の改新と大見得を切るくらいですから大成功だったのです。だからこそ、この二人が百済系新政権(大和朝廷)から大織冠を授かる訳です。
点と線がつながってきました。ところで中臣鎌足は弓の名手だったと言います。しかも藤氏家伝によると狩の途中落馬して重症を負ったと言うではありませんか。どこかで聞いたような話です。
落馬後3ヶ月は生存しましたが、天智天皇から大織冠を授かる1日後に亡くなったと言うのですから、阿武山古墳の被葬者の遺骨の分析結果と見事に合致して来るのです。テニスエルボーはボウエルボーだったのです。
大化の改新として我々が散々見せられて来た犯行現場イラスト(江戸時代に描かれたというが、事実とは異なるようだ・上の画像参照)を見ても中臣鎌足は弓を持って控えているように見えます。
首を刎ねているのが豊璋(中大兄皇子)で、刎ねられたのが蘇我入鹿大王です。後方に見えるのは皇極天皇と言われていますが、中大兄皇子の母親という触れ込みです。
点と線が繋がり、さらにそれが時空を越え、クリアな面として見えた瞬間でした。渡来人テロリスト藤原鎌足は1353年前に確かに存在していて、大化の改新の功績を認められ大織冠を授かったのは紛れもない事実なのです。この重大発見はなぜか日の目を見ていません。
ところでテロ実行犯の片割れ扶余豊璋ですが、父である武王が死亡し百済が唐との戦いに敗れた後の661年に次期大王を請われて百済に戻っています。それも5000人の大和軍護衛部隊を引き連れてというのですから、その扱いはやはり次期大王級です。
その後豊璋は行方をくらまします。そもそも衰退して周りを敵に囲まれた国の大王になるつもりはなかったのです。高句麗にいたところを唐軍に見つかり、唐へ連行されたという説もありますが、おそらくそれは実兄?で事実は中大兄皇子に成り代わって大和へ戻って来たと思われます。
しかしながら故国への想いは強かったのか、あるいは660年の敗戦で大挙亡命してきた王族、貴族らに押されてか、663年の白村江の戦いに大和から大軍を送る事になります。およそ5万と言われる大和軍を推定千隻の軍船で三波に分けて派兵するのですからすごい話ではないでしょうか。
その当時の日本の人口は400〜500万人程度だと思われますから、今の人口比で言えば25倍、120万に相当します。それらを乗せるだけの船があった事だけでも驚きですが、援軍として海外まで大軍を送って勝てる見込みのない戦争をするというモチベーションが理解不能です。肝心な支援先の百済には敗残兵しか残っていないのです。
対する唐・新羅連合軍は18万とも言われますが、水軍は七千人程度と大した数ではなかったようです。それにも拘らず、突撃しか能のない大和軍はたちまち400隻余りを失いあっさりと敗退する事になりました。
その責任はもちろん後の天智天皇である中大兄皇子にありますが、唐からの追求を逃れるために烽火・防人を設置し太宰府には水城等、大規模城壁を築いた事は歴史的事実として今も残る遺跡が証明しています。
長くりましたので続きは次回とさせて下さい。
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