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2024年1月

2024年1月29日 (月)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その2)

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その(1)からの続きになります。

日本は少なくとも人類史を俯瞰して見た時に、人種差別撤廃に最も貢献した国と言えるのではないでしょうか。もしあの戦争がなければ地球全体がコロンビアのようになっていた可能性を否定する事は出来ません。

しかしながら人類に貢献と言っても、肝心な日本人には全く貢献しなかったのがあの戦争です。700万人超の徴兵の内230万人が死亡、内140万人が病死、餓死だと言います。民間人も80万人犠牲になりました。その内30万人は海外での死亡です。

戦いで死ぬのなら未だ分からないでもありませんが、それより圧倒的に多い餓死病死は言語道断です。兵站、補給のお粗末さ、計画の甘さは言い訳の出来るレベルではありません。民間人の死亡者数も多すぎます。勝てる見込みがなくなった戦争を長引かせた事が原因であるのは明らかです。

純粋に国思う有能な若者達を特攻攻撃に追い込んだのも日本人に対する重大な犯罪と言えます。3948人もの尊い命が失われていきました。戦勝国側の米が兵士の命を出来る限り守ろうとした姿勢とは対照的だったのです。余りに粗末に扱われた国民の命でしたが、その総括は終わっていません。

東京裁判は戦勝国の一方的な裁判であり、本来やるべき日本政府の日本国民に対する責任は果たしていないのです。そこをきっちりやらない限り歴史は繰り返されます。

実際今回のコロナ騒動でも現政権は満足に治験が終わっていない人類初のタイプであるmRNAワクチンを国民に打たせる、つまり人体実験をするという暴挙に出ました。裏で莫大な利権が動いたのは想像に難くありません。

その接種後の死亡者数は公表されているだけで2千人余りですが、インフルエンザワクチン接種後に死亡する人の数は毎年5千万人中5人前後なので、コロナワクチンでは延べ接種回数が3億9千万回と多いものの、率で見ても圧倒的に多い死亡者を出した事になります。

さらに厚労省が発表している人口動態統計では、2020年に前年比マイナス1万人だった日本人の総死亡者数が21年に6万8千人増、22年は13万人増と、コロナワクチン接種開始後は急増しています。どう見ても異常で戦争レベルの死亡者数だと言うのに政府もマスコミも問題にする気配はなく、それどころか全く無視を続けるという不自然な状態が続いているのです。

これではあの敗戦から何も学んでいないどころか、無責任さは加速しています。残念ながら政府もマスコミも全く信用出来ない国、それが今の日本と言うしかありません。

渡来系弥生人について

 話は古代に遡ります。1万年以上も平和な縄文時代が続いた日本ですが、小波は押し寄せたようです。今から3千年ほど前にインドからアーリア人に押し出される形でトラヴィダ族が巨石文化と稲作を携えて渡来して来ました。クナトの神を崇めるアジア系ですが、インドヨーロッパ語族のヒッタイト人も一部含まれていたかもしれません。製鉄技術(タタラ製鉄)が伝来した事から窺えます。

その人達は平和裡に縄文人と融合したようですが、居住地域が出雲周辺だけでなく東北その他にも散らばっているのを見ると、その後に何か大きな争いがあったのかもしれません。因みに出雲にも東北と同じズーズー弁と言われる訛りがあり、同系の民族だと思われます。大和朝廷に追われた出雲族は北へ北へと移動したという説が有力です。その人達は大和からは蝦夷と蔑まれ東北地方に安住の地を求めます。

その出雲弁に関しては、今の日本語に極めて近い言語だという説があるようです。少なくとも縄文人が話していた言語とは別物と思われます。という事は後から渡来して来る騎馬民族扶余と基本同じ言語で、言わば方言同士の関係だったのかもしれません。これは日本人のルーツを探る上で、かなり大きなヒントです。Photo_20240129131301

ところでインドから渡来したとされるトラヴィダ族ですが、そのまま今で言うところの出雲族になったのかと言うと、それも考え難いのです。なぜなら出雲王朝は紀元前7世紀頃の縄文末期に立ち上がったと言われていますが、平和な世界に王朝は必要ありません。何か団結する必要があるから支配体制が出来るのであって、外圧や争いのない自由な世界に王朝は不要です。

一説によると出雲の大国主は大月(だいげつ)の滇氏(てんし)だと言います。もっとも大月はインドにかなり近いのでトラヴィダ系だとしても不思議はありません。ひょっとして後から渡来して力で王朝を打ち立てたのかもしれませんが、詳しい事は分かっていないのです。

いずれにしても滇氏のトーテムは蛇だと言うので竜蛇族と言われるトラヴィダ族との相性は悪くなかったと思われます。奈良大神神社の主催神、大物主(饒速日)は小さな蛇であったという記紀神話からも出雲族は天津神系(天孫族)ではなく国津神である事は確かなようです。

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(縄文末期には8万人まで減っていた人口が弥生時代に急激に増加したのはトラヴィダ族が稲作を携えて渡来したのが一大要因と思われる。)

 富氏の出雲口伝によると出雲王朝は紀元前3世紀に渡来してきた天孫族に滅ぼされるのですが、最初の天孫族は秦の始皇帝から不老不死の薬草を探すよう命を受けた道教の方士、徐福一行だったようです。二回に分けて数千人規模で渡来してきた徐福一行は人口が数万人規模であった当時としては一大勢力となりました。

様子見の最初は出雲王族との婚姻などで同化策をとったようですが、秦の始皇帝をうまく騙し、弩(いしゆみ)の名手を多く帯同して武力を強化した二回目には侵略者に豹変したようで、日本神話で徐福は素戔嗚(すさのお)という名で表されています。天照大神が手を焼いてお隠れ(死亡の意味)になってしまうのですから余程手に負えない暴れん坊だったのでしょう。

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(日本各地に徐福伝説があり、和歌山には像も作られている)

ただ、素戔嗚が本当に天照大神(卑弥呼?)殺しの犯人かと言えば、時代が4世紀も違うのであり得ません。後に渡来した侵略者を庇う為に素戔嗚という神話上の人物名での悪事にすり替えたと思われます。

これでも窺えるように、ややこしいのは記紀(古事記/日本書紀)の記述です。8世紀に天武天皇の命で作られた天皇史は万葉仮名で書かれた古事記と漢文で書かれた日本書紀に分かれ、古事記が出雲神話を重視し、対外(中国)向けと言われる日本書紀は存在が疑問視されている神功皇后や壬申の乱を重視するなど、どちらも監修したのは藤原不比等だと思われるので明らかな偏りが見られます。

歴史書が勝者都合の歴史物語になっているのは古今東西を問わない決まり事なので、その点は差し引いて見なければなりません。もちろん天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)が日本書記編纂の主要メンバーにいたため、全くの嘘は書けず、数多くの真実や、それに至るヒントが散りばめられているのは救いです。そこを手がかりに探っていくしかないのですが、いかんせん、都合の悪い証拠は極力隠滅され文章による資料も少な過ぎるのです。

ところで藤原不比等ですが、藤原鎌足(元中臣氏)の実子ではないようです。中大兄皇子と組んで起こした乙巳の変の首謀者中臣鎌足は実の父ではないという説が有力です。当時は報償として主君の子を孕った妃を、勲功を挙げた臣下に与える風習があり、天智天皇と鏡女王の子が不比等だと言われているのです。

もしそれが事実なら本人それは知っている筈なので藤原氏と天智天皇側に立った、つまり体制側(百済側)の考えを持って行動していたのは間違いないと思われます。ではその義父である中臣鎌足の出自ですが、天智天皇から授かった大織冠(下の画像の烏帽子)や玉枕などの副葬品で鎌足の墓と思われる阿武山古墳から出た骨を解析した結果は日本に20%前後いるとされるO1b2の大陸系で、なぜか天智天皇の子である筈の不比等も同じだと言います。

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手前の緑色の物は副葬品で、玉枕と言う。日本にはなかった高度なガラス成形技術で作られている。被葬者の出自を窺わせる。因みに大織冠を授かったのは扶余豊璋と藤原鎌足二人のみである。

と言うことは天智天皇もO1b2の可能性が高いという事になります。意外にもD1a2と言われる天皇系の血筋ではなく大陸系渡来人なのです。ちなみにこのY染色体O1b2遺伝子は朝鮮半島にも9%いるとされています。彼の国でもしぶとく淘汰されずに生き残っているようです。

その(3)に続く

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2024年1月24日 (水)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その1)

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 日本人のルーツに関しては諸説あって、侃々諤々と議論がなされてきました。しかしどれもしっくりと来ません。しかしながら最近のDNA解析技術は長足の進化を遂げ、かなり昔の事が詳細まで分かるようになって来たのです。

そうは言ってもサンプル数が極端に少ない人類の起源にまで遡るのは意味がありません。従ってかなり確かだと思われる10万年前頃から話を始めます。今の原型となった人類が、アフリカから世界へ散らばっていったのは10万年前頃という説があります。5万年前にはアジア南部にも到達し3万8千年前には日本列島にも到来したと考えられます。

1万6500年前から新旧の石器時代を含む縄文時代が始まります。その頃の人類ですが、男系が分かるY染色体ハプログループを例に取りますと、A型から始まり古い順にBCDという具合に枝分かれしていきます。最後つまり最新の人類はR型だそうですが、日本に辿り着いたのはその中でもかなり古いD型でした。

但しD型の全てが来た訳でもないようです。あるグループは日本をスルーして北へ上って行ったと言います。幸いにも日本に到達したグループは豊かな自然の恵みを受け狩猟採集民族として数を増やしていきました。

しかし良い事ばかりではありません。気候変動や火山活動で移動を余儀なくされたグループもあり、住みなれた地を離れ東方あるいは大陸へ向かったと言います。

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日本人のDNA

 既にご存知とは思いますが、日本人の男系Y染色体、D型遺伝子は世界広しと言えど、チベットやバイカル湖周辺、あるいはアンダマン諸島にしか残されていないと言います。さらに、これらの遺伝子の元が日本到達前のものなのか、あるいは到達後に脱出したものなのかはよく分かっていないのです。

参考までに興味深い例を紹介します。現在の南米コロンビア人の遺伝子ですが、Y染色体を調べると男子の全てがスペイン人のものだと言うのです。一方女性は、母系が辿れるミトコンドリアの解析では全てがモンゴロイド、つまり原住民のものでした。

これはスペイン人がコロンビアに上陸した瞬間からコロンビア人男性の生殖能力が失われていった事を意味します。女性にとってはスペイン人の男性しか選べないという不自然な状態に陥ったのです。つまり自国の女性を帯同しなかったスペイン人はコロンビア人男性を尽く排除したのです。

逆の例もあります。東ヨーロッパ人のY染色体にはモンゴル人のものが一部に存在し、ミトコンドリアでは全てコーカソイド(白人原住民)のものでした。蒙古が東ヨーロッパにまで侵攻し、一時期支配したという証拠ではないでしょうか。

翻って我が日本はと言うと、縄文人のD型遺伝子は地方によってもばらつきはあるものの、全体では40%を占めます。他は大陸からの渡来系と思われるO型二系統が50%で、残りはDよりも古いCが北(アイヌ)に少々と少数民族系が何種類かあるようです。これを見る限り日本が一つの民族によって強権的に支配された痕跡は見当たりません。(下図参照)

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世界に例を見ない平和な地域が日本列島なのです。では対外的にはどうでしょうか?日本がどこかの国に攻め入って強権支配したかどうかは相手国のDNAを調べれば詳らかになります。

かつて日本が統治した朝鮮半島や台湾で日本人のDNAが激増したかと言うと、全くそんな事はありません。(下図参照)むしろ朝鮮半島の場合、現地人人口は統治時代の35年間で1300万人から2500万人へほぼ倍に増えました。

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さらに李王家の末裔、李垠王世子(リ・ギン)に日本の皇室から梨本宮方子女王を嫁がせるなど、手厚い融和策をとったことは意外に知られていません。

日本による外国統治に関して当時の英国BBCは欧米のようなColonization ではなく Annexationであると報じました。つまり植民地ではなく併合だったと言っているのです。

事実日本政府は現地人を日本人とし、日本人と同じ待遇を与えたのですから、欧米の植民地支配からは程遠いものがあります。しかもその併合は米英も公式に認めたものだったのです。

これは、人類は皆一つ屋根の下という八紘一宇の理念がベースにあり、また大東亜共栄圏の考え方にも合致します。つまりアジア人で団結して欧米列強の植民地主義に対抗しようという日本の願いは昭和天皇の開戦の詔勅を見ても明らかなのです。

国際連盟で日本が提起した人種差別廃止案は白人諸国によって廃案とされました。さらにABCD包囲網で日本締め付けが強化されていきます。そういう状況下で日本の選択すべき道は多くはなかったのです。

結果は無残な敗戦となりましたが、ニューヨーク・タイムス東京支局長の故ヘンリー・S・ストークス氏は「1941年、日本はアジアで大英帝国を瞬く間に滅亡させてしまった。非白人が、白人がアジアで展開した植民地支配を覆したのだ。このため日本人に対する憎悪は、戦後も長く続いた。」

また「世界史上、日本ほど人類に貢献した国はない。日本はアジアの希望の光だった。」と賞賛しました。その言葉を裏付けるように戦後植民地支配されていたアジア諸国は尽く独立して行ったのです。

日本軍が追い出し、日本の敗戦で戻ってきた欧米宗主国と元植民地の間で戦争も起きましたが、日本の戦いぶりを見て、アジア人でも十分に戦える事を知った現地人は死に物狂いで独立戦争を勝ち取ったのです。もちろん日本軍が現地人に軍事訓練を施し武器の供与もしていなければ、この奇跡は起きなかったでしょう。

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(インドネシアのカリバタ英雄墓地、1000人も残留して共にオランダと戦ったと言われる多くの日本兵も眠っている)
その2へ続く

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