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2024年2月 7日 (水)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その3)

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その(2)からの続きになります。

その時代を遡ること400年、3世紀の卑弥呼の時代、朝鮮半島は漢や魏に押される形で非漢民族が入れ替わり立ち替わり国を作っていました。多数派は中国北東部の匈奴に代表される騎馬民族です。

その中で高句麗、新羅、百済は殷をルーツに持つ騎馬農耕民族の主体は扶余だと言われています。従って移動ルートの違いで若干の言葉や習慣の違いはあるにせよY染色体遺伝子はかなり偏っている可能性があります。

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(1〜4世紀の朝鮮半島、三韓時代)

もちろん移動の途中で色々なDNAを持つ民族が加わって来るので全て同じという訳にはいきませんが、君主が絶対的な権力を持つこの時代、安全保障上も支配層の多くは同系統であったと思われます。

一説によると大化の改新の立役者、中大兄皇子(後の天智)の父は百済の武王、母も同じく百済の宝皇女と言われています。記紀で彼らは舒明天皇と後の皇極天皇とされていますが、記紀としては天武が日本国を宣言した直後だけに外国の王が日本国の天皇では具合が悪いので、舒明、皇極を創出して辻褄合わせをしたと思われます。  

従って中大兄皇子は古くから日本にいた大王の直系ではなく、蘇我氏が百済から人質として来倭させていた二人の内の一人、百済皇子の扶余豊璋だという説が有力です。大海人皇子と兄弟のようにして蘇我家で育てられたと言います。

それはまた、その時代大和が百済の上位にいたという証しにもなりますが、そんな中、百済人翹岐(ぎょうぎ)が百済武王の跡を継いだ義慈王と奸計を企て、島流しという名目で642年に日本に上陸、滞在中の人質豊璋を担ぎ出して645年に乙巳の変に及ぶというシナリオはあり得ない話ではありません。

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(上の画像は蘇我入鹿が中大兄こと扶余豊璋に切られるシーン、左手前に弓を持っているのが中臣鎌足こと百済人翹岐、彼は弓の名手とされるが阿武山古墳から出た骨にもテニスエルボーの痕跡が見られた、つまり弓エルボーだったのだ。)

つまり朝鮮半島(高句麗、新羅、百済)が勢力争いを繰り広げる時代、大和国の蘇我政権を倒し百済傀儡政権を樹立して、支援させようという魂胆ではなかったかと推察されるのです。案の定、乙巳の変で事実上の大王家だった蘇我氏が滅亡した後の大和国は百済支援に積極的になります。

その島流しの時に同じ船に乗っていたのが亡き武王の妃、宝皇女(後の皇極天皇)とその姪の文姫(額田王)他で、危険な百済から一族で避難して来たのか、あるいはこれから演じる大和での茶番劇に登場する任務?も兼ねての事だったのかは分かりません。

筋書き通り蘇我入鹿を暗殺し乙巳の変は成功しますが、肝心な故郷の百済は660年に唐新羅連合軍の前に壊滅状態となり、小規模な抵抗軍を残すのみとなりました。

その抵抗軍の将軍、鬼室福信は人質豊璋の帰還を大和に要請します。既に百済の傀儡であった大和朝廷はそれに応じ豊璋は大和水軍1万余と共に661年、百済に凱旋、新百済王として唐新羅軍と戦うも、内部での分裂(豊璋による鬼室福信殺害)もあってあえなく敗れ行方不明となります。

ところが今度はちゃっかり中大兄皇子として大和に戻り、朝廷の実力者になっていた大海人皇子の支援を得て百済再興に奔走する事になるのです。

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(唐新羅軍に数の上では圧倒していた大和百済連合軍だったが、にわか仕込みの水軍では勝てなかったようだ。上の画像は当時の軍船を再現したもの、50人程度が乗り組んだと言われる。)

結局663年、白村江での最終戦で大和百済連合軍は壊滅的打撃を受けます。焼け残った600隻にも及ぶ軍船には敗残兵と大量の百済難民を乗せて帰還する事になったのです。

これでも分かるように、ここまで親身になって百済を守ろうとしたのは百済と大和は元々同族であったという事もありますが、当時の大和は百済の強い影響下にありました。

それにしても大和は延べ5万人近い軍派兵と言うのですから、今でも大戦争の部類に入ります。その組織力、機動力、兵站供給力には驚かされるものの、突撃一本槍の戦法では戦い上手とは言えなかったようです。どこかで聞いたような話です。歴史は繰り返されます。

さて、本来ならテロ後は中大兄皇子が蘇我入鹿に代わって大王となってもおかしくないところ、間に孝徳天皇を挟んだり、母の斉明(宝皇女)を立てたり、さらに斉明死後も天智称制を続けたのは大国唐を意識しての事と思われます。

実際、白村江の戦い後は唐から郭務悰が三度、最大2000人の使節団と戦後処理のために来日しているのです。第二次大戦後のGHQ的役割でしょうか。

また国内においても周りの目を警戒する必要がありました。百済皇子がいきなり大和の天皇になったのでは周りが納得しません。周りの、過去を知る不穏分子を排除してから旧来王家の皇子として天皇を名乗ったと思われます。

結局唐が百済や高句麗を滅ぼした後、新羅との戦いを始めたために、幸運にもキャスティング・ボートを握る立場となった大和は唐の軍門に下る事は免れました。

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(唐による侵攻、あるいは戦争責任追求に余程ビビっていたと見えて、烽火・防人を設置、当時の首都、北九州太宰府に短期間で作った水城も大掛かりなものだったようだ。30も造った山城の大半も太宰府周辺に造られたという事は、やはり太宰府が守るべき都だった事を思わせる。)

ちなみに記紀では皇子時代の中大兄皇子を皇子とは表現していません。皇子抜きの中大兄として天皇の直系ではない事をほのめかしているのです。舎人親王の目があるので、あまり露骨な事は出来なかったのかも知れません。天武側に不利な記事も書けなかったと思われます。

もっとも、天武の起こした壬申の乱後に天智系、中臣系は一掃されており、記紀編纂当時は百済系にとって、やりにくい状況があったと思われます。そんな中で藤原不比等が天武天皇崩御後、天武直系の文武天皇に娘の宮子を嫁がせ藤原家を再興させたのは、やはり権謀術数に長けていたからでしょうか。

話はクーデター(乙巳の変)に戻ります。そういう荒技が可能だったのも当時の日本と百済が数百年も前から行き来があり、政権中枢が同系の民族で同じ言語を喋っていたからに他なりません。

現在のような関係ならそんな芸当はあり得ないのです。それを見ても明らかなように当時、扶余語族が支配する朝鮮半島は古代日本語が普通に通じる世界でした。

今のハングルは支配層の大半が半島から大和に移った後、新羅を征服した挹婁、靺鞨、勿吉、エヴェンキなどのツングース系言語が古代日本語を上書きしたと思われるので、日本人との意思疎通は困難です。文化的、情緒面でも大きな違いがあるので誤魔化すことは不可能と思われます。

言語について、万葉集から良い例を紹介します。額田王と大海人皇子(後の天武天皇)との間で交わされた粋で切ない恋歌です。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王)

簡単に説明しますと、王族の、ある野外での集まり(狩や野草摘み)の折、額田王に向かって合図を送る大海人皇子に対し、そんな事をして、夫の天智天皇が見てやきもちを焼いたらどうするの?と言う、そんな感じの歌です。

その時の額田は大海人と別れ、天智と一緒になった直後でした。天智から是非にとの要請に泣く泣く応じ額田を手放した大海人には未練があったと見えます。天智は額田と交換に自分の4人の娘を差し出したと言うのですからよっぽどです。その中には後の持統天皇がいました。

続きがあります。その後の宴の席で今度は大海人が額田に歌を返します。

紫草の 匂える妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも(大海人皇子)

美しい紫草が匂い立つようなあなたが憎くければ、なんで人妻だと言うのに恋焦がれる事などあるでしょうか。その会には天智天皇も同席していたと思えるので、二人とも随分と大胆な歌を詠んだものです。

まあ、当時の感覚では笑い話でやり過ごせるギリギリかもしれません。こう言うユーモアとウィットに富んだ句がすらすらと出てくるのが、この時代の王族なのです。すごく日本的で、文化レベルを超越し文明の香りさえ漂います。

ところが驚くべき事に今でも十分に通じる日本語を華麗に操る二人とも日本列島で生まれ育った所謂日本人ではなく、増して縄文人でもないのです。額田は幼名を文姫と言って百済の武王と新羅の将軍、金庾信の妹との間に生まれた王女でした。

もっとも、生まれたのは鸕野の讃良(うののさらら/後の持統天皇)と同じ畿内の鸕野の邑(うののむら=河内)で、その後百済に渡り10歳の時に新羅王の金春秋に政略結婚で嫁ぎます。その後百済と新羅の関係がこじれ、文姫は百済に返されますが、成人してからは大海人皇子に嫁ぐ事になりました。

その大海人は大陸と大和を股にかける漢人で大化の改新政府の国博士、高向玄理(たかむこのくろまろ)が父という説があります。(義父説もあり)父の都合で高句麗から大和(蘇我氏のもと)に渡来しました。母親は百済武王に嫁ぐ前の宝皇女(後の皇極・斉明天皇)と言うのですから当時は今よりはるかに国際的で恋愛も自由だったようです。

つまり中大兄とは実の兄弟ではなく、大海人は異父兄弟の兄だったのです。従って表向きの皇位継承順位は中大兄皇子より下となります。なぜ中大兄皇子が先に天皇になったのかが分かるというものです。

これでも分かるように百済と大和間には明確な境界などなく、兄弟国のような関係でした。しかも何と古代日本語は縄文人ではなく、元々渡来人が使っていたのです。昔からの謎が解けた瞬間でした。渡来人は縄文人の間に割り込んで来て支配したにも関わらず、先住民の言語(日本語)が残ったというのは納得のいかない話でした。

当時の先住民である縄文人はアイヌ語や隼人語等とも関連が薄い、今では消えてしまった上代東国語に類する言葉を話していたと思われます。フィンランドの言語学者ユハ・ヤンフネンはアルタイ語族仮説に否定的で、類型論的特徴を持つ日本祖語は渡来人が移動の過程で変化したものを列島に持ち込んだと言う仮説を展開しています。

その(4)に続く

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