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2024年8月

2024年8月30日 (金)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしてるのか?(最終回)

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その(5)からの続きになります。

 SDGs は新興宗教

 また巷にはテスラ(EV)真理教やSDGs崇拝も数多くいると言われますが、刮目すべきはこれらが国家間において政治問題化している事です。つまり純粋な環境問題は置き去りにされ、特定の国、あるいは誰かに都合のいいように特定の問題をクローズアップし扇動しているのが垣間見えます。

実際には空気中に1万分の4しかないCO2よりも遥かに悪質なのがNox(窒素酸化物)Sox(硫黄酸化物)またPM(粒子状物質)で、それによる死亡者数は年間数百万人と言われています。なぜそこはもっとクローズアップされないのでしょうか?CO2では人は死にません。むしろ植物にとってはなくてはならない物です。

ジュラ紀・白亜紀には今よりCO2は5倍以上もありましたが、植物はよく茂り、大食いの恐竜も全盛でした。多少気温は高かったかもしれませんが、生物にとっては適している環境と言えます。ちなみに産業革命時のCO2濃度は280ppmで今は385ppmです。250年で105ppm増えました。

それが今の5倍になるには、このペースで増え続けるとして、4000年以上かかります。しかもその内人為的なものはCO2全体の3%に過ぎないのです。これの何が喫緊の問題なのか分かりません。何か別の思惑があるからこそ、こういう適当な事を言って煽るのです。

環境問題を政治問題にすり替え、急激な変化を演出する事によって莫大な利益を得る人達がいるのは明らかです。そこを看破し疑問を呈するのが大人の洞察力、感性ではないでしょうか。どこの国、どの企業とは言いませんが、現実にもそういう現象が起きています。もはや火事場泥棒が跳梁跋扈し好き放題しているのが地球の現状であり、人類にとっての大きな問題なのです。

そもそも最もCO2排出量が多い米国や中国は口で言うほど減らしていません。01年比で言えばむしろ増えているのです。自動車だけで言っても日本のCO2削減は世界ダントツです。(下図参照)だと言うのになぜか日本が責められています。日本のマスコミまでが日本はEV化で出遅れたと騒ぐ始末です。

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EV化は単にCO2を減らす一手段に過ぎません。LCA(ライフサイクルアセスメント)で見た場合はハイブリッドカーの方が結果として高効率な場合もある得るのです。つまりトータルで判断すべきなのに一手段のみを強引に押し付けるのは理不尽と言うしかありません。これを政治的圧力と言わずして何と言うのでしょうか。

 EV化はむしろ結果的に地球環境にとっては逆行するという説さえあります。一つは二次電池のリサイクルの目処が立っていない点です。コストが新規製造よりも高くなるので現時点では廃棄される可能性が高いのです。1台につき200〜400キロも積む二次電池が寿命を迎える頃、地球は汚染電池ゴミの山となるのです。年間の自動車生産台数1億台が全てEVに置き換わる未来は果たして持続可能なのでしょうか?

もう一つは途上国の環境問題です。レアアース、レアメタルは主に南米や中国などの途上国で産出されます。では先進国では産出出来ないのかと言うとそんな事はないのです。米などはその気になれば可能なのですが、コストが合わないので途上国から買っていると言います。

ではなぜコストが合わないかと言うとコンプライアンスの問題があるからです。厳しい法律や環境に配慮したのではコストがかかり過ぎて全く採算がとれません。逆に法律や環境、また人権に対するコンプライアンス意識が低い途上国では安く採掘が出来るので重宝されるという訳です。

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採掘のためにガソリンより高い水をふんだんに使うやり方では、汚染だけでなく、地元の水源問題、飲料水問題に発展するのは自明です。その他、子供達の不法就労、某国では少数民族をただ同然で使うなどの人権問題があって、それらの解決の目処は立っていません。

つまりこれは言い方を変えれば環境問題の輸出(公害輸出)なのです。先進国は自国さえ環境が良くなればいいと思い、途上国は人権や環境よりお金が大事と言う訳です。地球全体で見れば汚染ニュートラルとでも言うのでしょうか。(笑)とても持続可能でないし賢明なやり方でもありません。

SDGsは新興宗教にも似た胡散臭さ満載です。そもそも米や中が、なぜやる気がないかを考えなければいけません。答えは簡単で安全保障問題と直結するからです。つまり国力を低下させかねないSDGsには相手の出方を見ながらでないと乗れないのです。

自国を不利にする話に乗る訳がありません。逆に他の国には圧力をかけて、きっちりやらせようとします。割を食うのは日本のような政治力がなく、国民もバカ正直な国です。これを見ても明らかなようにSDGs は環境問題ではなく政治問題なのです。

私は別に環境問題なんてどうでもいいと言っているのではありません。ただ、46億年の歴史を持つ地球はそんなちっぽけな人間の営みとは全く無関係に動いていると言いたいのです。そこに人間が多少関与したとしても、その程度の事は大自然、大宇宙は織り込み済みで、温暖化どころか、そう遠くない将来に氷期も確実にやって来ます。

では食えなくなった極寒の時代には何と言って騒ぐのでしょうか? CO2出せ〜でしょうか。(笑)もちろんCO2に限らず環境は改善すべきですが、それらが将来に及ぼす影響が完全には予測出来ていない現在としては、どこかに過大で致命的な圧力がかからない範囲に止めるべきです。つまり角を矯めて牛を殺すような事があってはならないのです。

日本、いや世界がどこに向かおうとしているのか、それは誰にも分かりません。お天道様に聞くしかないと思われます。

竜頭蛇尾ではありますが、私的ファンタジーストーリーを終わりとさせていただきます。最後まで読んでいただき大変有難うございました。

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2024年8月29日 (木)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(5)

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その(4)からの続きになります。

 続いてトラヴィダ族を制圧したと思われる出雲族ですが、神話からは北イスラエルのダン族の末裔である可能性が高いです。蛇がトーテムである事、亀甲紋が六芒星を内包する点、天孫族に巨大神殿を立てさせた伝説(その証拠の巨大な柱跡が近年発見された)イスラエルの12氏族が10月に集合して団結を確認しあったという伝承も出雲旧暦10月の神在月と似ています。エドム=出雲という見方もあるので、この説もあながち眉唾とは思えないのです。

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興味深いのは、この滅ぼされた出雲族(ダン族)と滅ぼした側の天孫族である扶余(ナフタリ族)とは同じ故郷を持つ北イスラエルの10支族だという事で、それなら言語が方言的違いはあるにせよ基本同じだという理由が理解出来るのです。通ってきたルートによって変化するのはごく自然な事だと思われます。

日本神話でイザナギとイザナミが結ばれる時に淡路島で御柱の周りを回りながら「アナニヤシーエオトメヨ」「アナニヤシーエオトコヨ」とヘブライ語で誓いの言葉を言ったのも、やはりスファラディ系(アジア人)ユダヤ人が最終目的地のミゾホラである日本で国造りをしたからなのです。という事は神話を書いた側もアジア系ユダヤ人という事になり、その構図は今でも変わっていないと思われます。

かなり分かり難くなって来ましたのでまとめます。古代から日本にいた縄文人のY染色体ハプログループはD型であり、弥生時代に渡来して大和国を建国した渡来人の支配層もD型でした。これが意味するのは3万8千年前に別れた別のD型が新たに渡来して来たか、あるいは一度列島に来てその後何らかの理由で列島を離れた一族が色々な場所を経由して戻って来たかのどちらかという事になります。

下の図で弥生人に縄文系遺伝子の率が高いのは渡来人に縄文系遺伝子を持った人が多かった証です。武力的にも圧倒的に優位な弥生人が満足な武器も持たない縄文人に飲み込まれる事は考え難いので、弥生時代に爆発的に増えた人口の大半は稲作技術を持った弥生人由来と思われます。

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そうなると、昔から列島にいた縄文人が弥生時代に渡来系征服王朝の大王になる事は考え難いので、天皇家は初代から弥生系渡来人という事になります。天皇家の行事である大嘗宮の儀で行われる占い、亀卜が5世紀まで日本になかった事もその説を強化します。(亀卜は殷がルーツとされている)

BC660年に即位したと言われる初代神武天皇は記紀の辻褄合わせの産物なので魏に朝貢していた邪馬台国が3世紀に滅亡するまで列島に大王(天皇)らしきは存在しなかったのです。存在したとしても一拠点を支配する部族王に過ぎず、大王と呼べるようなものではありませんでした。正式な初代日本国天皇は7世紀の天武天皇です。それまでの王は大王(おおきみ)と呼ばれ初代大王は3〜4世紀に渡来した崇神天皇だと思われます。

BC660年は推古9年(AD601年、聖徳太子の改革年)から1260年を引いた数字で、それは中国の辛酉革命から来ているのです。そこまで引き伸ばすために欠史八代と言われる天皇(当時はただの王)の在位期間を長くせざるを得ず、妙に長寿の天皇が多くなったというのが真相だと思われます。

余談になりますが渡来人同士の争いの末、皆殺しにされ溝に無造作に埋められていたという、鳥取県の青谷上寺地遺跡で発見された弥生人の大量の骨を分析した結果、女性(ミトコンドリアDNA)は同じ系統が二組しかなく、他の30人余は全くの他人同士だったようです。

分析可能だった4人の男性(Y染色体)の内3人がD型だという結果も驚愕です。2世紀の100名程度の渡来人部落(男女比率5分5分)は今の都会のように出自が多彩な人の集合体だったのです。

日本の土壌は基本的には骨が溶けやすい酸性なので古代人の骨はほとんど残っていません。青谷上寺地の場合は奇跡的に保存状態が良く109人分の骨が発掘されました。時代性を考えると丁度倭国大乱の時期に当たり、何らかの衝突があったものと思われます。10体以上には男女を問わず武器によると思われる殺傷傷があり、しかも骨はバラバラに散らばっていたと言います。

ところで初代神武天皇の諡号はカムヤマト・イワレビコ・スメラミコトと言ってヘブライ語訳では「神の民の上に立つユダヤの初子でサマリアの尊い王」という意味になり、ヤマト(神の民)は大和、スメラからは明らかに古代イスラエル(首都がサマリア)、あるいはシュメールがイメージされます。

つまり記紀に神話を創作した側(最終的には藤原氏)も同じルーツでなければそんな突拍子もない事は書けないので、その時代から日本の支配層は古代イスラエル、あるいはもっと前のシュメールをルーツに持つ事になると思われます。

宗教に関して

 ここまで一気呵成に仮説ファンタジーを展開して来ましたが、この日ユ同祖論は意外にも戦前に信じられて来たようです。書物も沢山あったそうですが、なぜか進駐してきた米軍(GHQ)が焚書にしたと言うのです。GHQは仁徳天皇の御陵(大仙古墳)を無断で発掘したり、阿波の剣山から海人族と思われる顔に刺青のあるミイラ10体を夜陰に乗じて押収した事が当時の徳島新聞(下の画像)に報道されているのですが、古代ユダヤ関係に対する興味の持ち方が半端ありません。

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 まさか失われたソロモンの秘宝、三種の神器であるマナの壺やアロンの杖、またモーセの十戒が刻まれた二枚の石板が入った聖櫃アークが日本にあるとでも思っているのでしょうか。アシュケナジーユダヤが支配する大国アメリカとしては捨ておけなかったのかも知れませんが、まるで映画の世界のようで、嘘みたいです。(笑)

ちなみにシュメールにも三種の神器があって、そちらの方が日本のものに近いようです。剣と鏡、首飾りの組み合わせです。特に剣は日本の場合と伝承が同じで7つの首を持つ竜を退治したと言うのです。日本の三種の神器は熱田神宮に眠ると言われる草薙剣、翡翠の勾玉、伊勢神宮にあるとされる八咫鏡ですが、アークに構造が似た神輿にそれらを入れるという話は聞いた事がありません。

ところで諏訪大社の祭りなどを見ると旧約聖書の内容と妙に一致します。御柱祭はアブラハムの時代に神の依代であるレバノン杉をエルサレムの広場へ運ぶ儀式にそっくりだし、御頭祭も羊と鹿の違いはあるにしても75頭の首を生贄にして神に供えるのは縄文の精神とは相入れず外来の臭いプンプンです。旧約聖書の、アブラハムが神に感謝して羊75頭を捧げた話がルーツとしか思えません。

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 神官が男児(おこう)を神に捧げようと短剣を振り上げた瞬間、神の使いに止められる茶番劇も聖書と同じで神の身勝手さが垣間見え八百万の神を信奉して来た縄文の精神とは程遠い感じがします。

諏訪大社の祭神は武甕槌に追われた出雲族の大国主の第二子、建御名方、その妻八坂刀売神となっていますが、日本にはいなかった羊の代わりとは言え鹿の首を75頭も切って供えるという行為は謎です。出雲族のルーツが前述のようにイスラエルのダン族だとすれば、同じイスラエルでもナフタリ族のトーテムである鹿は生贄の価値しかないと見えます。

想像の域を出ませんが、鹿トーテムの扶余族である武甕槌に滅ぼされた出雲族は扶余に強い恨みを持っていて生贄には意識的に鹿を代用させたのでしょうか。それにしても毎年75頭も首を切るというのは尋常ではありません。現在は剥製に変わっていますが、それでもあまり気持ちの良いものではないのです。

渡来人には、やはり世界基準の荒々しさが目につくのですが、それを持ち込んだのが縄文と同じDNAを持つ渡来人だとしたら、随分変貌した姿で戻ってきたものだと呆れます。

縄文時代に日本を離れた彷徨う縄文人がメソポタミアに辿り着き、幾多の苦難を乗り超え日本に帰還するまでにエジプト、カナン、トルコ、インド・スキタイ、匈奴、扶余等を経ていく過程で首狩族になり、身内で殺し合うだけならまだしも、主君の死に際し、生きた付き人や奴隷数百人を共に埋葬するおぞましい風習まで身につけるのは想像を絶する試練だったようです。人柱という悪しき伝統も割合最近まで残っていたと言います。親切遺伝子が聞いて呆れます。

問題はこれからで、列島に戻った元縄文人はまた昔のように自然を畏敬するアニミズムの世界に戻る事はあるのでしょうか。日本の宗教は縄文時代には八百万の神を尊ぶ素朴なもので、渡来人が色々な神、宗教を持ち込んだのは明らかです。渡来人一番手トラヴィダ人は男女の性器がモチーフのクナト神、アラハバキ神の信奉者でした。東北に今も一部は残っています。

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(この遮光器土偶はアラハバキという説がある。大和朝廷からの弾圧を避けるためにクナトは地蔵に、アラハバキは弁財天になった)

 続いて秦氏系の第一弾、徐福一行が持ち込んだのは道教です。多神教ながらシャーマニズムが主体の宗教で、神の神託を政治に利用し民を惑わすカルト的宗教と言えます。卑弥呼や台与などの巫女的女性(シャーマン)によって祭祀が執り行われました。

そこに割り込んできたのがユダヤ教との親和性が高い物部氏の神道です。例えば諏訪大社の行事である御頭祭や御柱祭は旧約聖書の内容との類似性は極め高いと言えます。ところが諏訪大社の主祭神は建御名方です。建御名方は出雲族であり、出雲族は旧約聖書が完成する前から日本にいました。つまり旧約聖書の内容は知らない筈なので混乱して来ます。そこで注目すべきは当地にある守谷山や物部守屋神社です。

物部氏は恐らくですが、第一次渡来の秦氏の中にいたか、あるいはそれに近い時代に渡来したユダヤ系渡来人と思われます。名前の守屋はイスラエルにもあるモリヤ山由来で、神道(原始ユダヤ教)を守るための戦いで敗れました。旧約聖書を信奉していたからこその結果であると思われるのです。

その物部神道を封じ込めた仏教ですが、当時の政権には唐からの強い圧力があったと思われます。漢字を導入し宗教も導入せざるを得ない程の差し迫った状況が当時の倭国にはあったのではないでしょうか。朝貢国として倭国の安全保障を優先した結果です。

しかしながら空海の時代には仏教は姿を変えていきます。遣唐使として唐で学んで来たのは当時大陸で広く受け入れられた景教(ネストリウス派キリスト教)だったのです。弓月の国出身で原始キリスト教徒であった秦氏の支援を受けて特別待遇だった空海は唐に到着後、自らの意思で大陸を縦断、西安(長安)に赴き恵果和尚の下で、わずか半年で免許皆伝を受けました。

そもそも色々な分野での先端技術を日本にもたらした秦氏は特に宗教活動に熱心で、日本全国に八幡神社と稲荷神社を創建していった話は有名です。一説によると八幡はヤハウェを表し、稲荷はキリストを表すと言います。

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 稲荷(伊奈利)はI.N.R.I、すなわちJesus Nazarenus Rex Iudaeorum の略でナザレのイエス、ユダヤの王の意味なのです。N(ん)の単独での発音がなかった古代日本語ではINRIを「いなり」と発音したようです。そのINRIはイエスが磔になった十字架に罪状として刻まれています。ちなみに稲荷と狐は関係ありません。神仏習合で仏教側から入ったと言われています。

このように日本神道だけでなく、仏教もキリスト教の影響を多大に受けていたという話は実に興味深いです。それらを強力にプロデュースした秦氏の目的は何なのか? 私財を投げ打ってまで平安京構築に尽力したのは実は平安京にエルサレム(平安な都)を投影し、メシア再臨の地としたかったからでしょうか。

空海が作ったと言われる「いろは歌」がありますが、実はそこには重大な秘密が隠されていました。

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 最下段を右から左へ読むと「とかなくてしす」(咎なくて死す)と読めます。イエス・キリストは何の罪(咎)も犯さないのに人々の罪を一身に背負って死罪になりました。次に最上段を右から読むと「いちよらやあゑ」(一張羅ヤハウェ)となりますが、これは最高神ヤハウェ(ヤーウェ、ヤーヴェとも言う)を意味するのです。さらに右上、左上、左下を読めば、い、ゑ、す、となります。

民の救済を第一としたキリスト教と支配層の知的好奇心をくすぐるファッショナブルグッズとも言える当時の仏教ではコンセプトが全く違います。空海が景教を真言密教として日本に導入した目的は正にそこにあったのではないでしょうか。

真言宗の僧侶は袈裟の下で十字を切ると言います。父と子と聖霊の御名においてアーメンです。驚いた事に大日如来、天照大神、キリストは同一の太陽神だったのです。もっと言えばイスラム教のアッラーも根は同じと言われています。空海はまた四国八十八ヶ所巡りでも有名ですが、八十八という数字は特別な意味を持ちます。

例えば日本人の最も重要な食料であるコメは米と書き一文字で八十八とも読めます。さらに米は十とXが重ねられているようにも見えるのです。つまり十字架にX(キリスト)が磔になっている訳です。80はまたヤソとも読め、耶蘇教をイメージさせます。

さらに8X 8は64となり日本の5節句は1月7日の七草から64日毎に設定されています。このように勝利の意味を持つと言われる88は色々なところに使われていて、四国八十八箇所も何かを守る結界を張るために設定、創建されたのではないかと思えて来るのです。

では何を守りたかったのかですが、やはり剣山にあると言われるアークでしょうか?そうなると物部系で祭祀を司る母系の阿刀氏と、父方の秦氏系である佐伯氏の血が流れる空海も旧約聖書の内容や渡来人が阿波で何をしたかを知っていた事になり、生まれながらにして、ある使命を帯びていたのかも知れません。その不思議な霊力、功績を見るにつけ、我々の想像力を遥かに超える存在と言えます。

さて、件の景教(ネストリウス派キリスト教)は偶像崇拝もキリストの母マリアの神性も認めませんでした。それゆえ異端とされたのですが、ローマ国教となったキリスト教カトリックは醜く変貌し、ヤハウェが禁じた偶像崇拝は守られず、為政者や教会側に都合の良い、何でもありの金権宗教に堕落していったのです。

翻って我が日本ですが、無宗教に慣れた彷徨える現代人はどこに心の拠り所を見つけるのでしょうか。カルトにまで堕落した偶像崇拝なのか、縄文の八百万の神信仰に見られるアニミズムなのか、あるいはそれがもし人工物の最たるもの AI なら日本人の未来が明るいとはとても思えないのです。

次回、最終回に続く

 

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2024年8月26日 (月)

日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その4)

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その(3)からの続きになります。

もちろん、縄文人と渡来人の接触は少なからずあったと思われますが、渡来人が稲作のため平野に住みついたのとは対照的に狩猟採集民族であった縄文人は山でも生活が可能なので棲み分けが出来ていたという説もあるようです。稲作に最後まで馴染めなかった一部の縄文人たちは最終的には「サンカ」となって山に篭り、渡来人との交わりを絶っていったのです。

そこで新たな疑問が浮かび上がります。百済と大和(渡来人同士)はいつからそんな関係になっていたのかという事です。存在が確実な邪馬台国や出雲王朝との関係もよく分かっていません。よく言われる3世紀から5世紀にかけての空白の150年と言われる時代に何があったのか答えは出ていないのです。

つまり邪馬台国が東征してそのまま畿内で新王朝を立ち上げたのか、あるいは畿内にも拠点があったとされる出雲王朝が全国制覇したのかは記紀でも詳らかにされていません。万世一系説が崩れる話は徹底的に隠蔽されたと思われます。

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しかしながら刺青文化で埋葬様式が円墳あるいは甕棺墓(上の画像)主体であった邪馬台国がいきなり畿内で100人以上の殉葬を伴う巨大前方後円墳に変わる事は考えられません。刺青も習慣がなく、扶余系渡来人が見て驚く記述が残されています。出雲も然りで四隅突出型墳丘墓や銅鐸がこの時を境にすっかり消えてしまったのは支配者が入れ替わったと考えるのが自然です。

墳墓だけでなく大陸にしかなかった三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう/上の画像)も3世紀末から百単位で突然増加します。さらに北九州の邪馬台国候補である地域の吉野ヶ里遺跡に代表される環濠集落も3世紀以降は消滅していくのです。

そこで頭に浮かぶのは東大の故江上波夫氏が提唱した「騎馬民族征服王朝説」です。半島から馬に乗った軍団が襲来し、それまでの王朝に成り代わったという仮説です。それなら半島との行き来も活発になり、大きな経済圏としての朝鮮半島南部〜大和圏が成立してもおかしくありません。

恐らく女王卑弥呼の邪馬台国と出雲王朝は時間差こそあれ大陸系騎馬民族によって征服されたのです。群雄割拠とも言える大陸で百千錬磨を経た騎馬軍団の前に、それまで小競り合いはあるものの比較的平和だった倭国はひとたまりもなかったと思われます。ところが江上氏の説は4世紀が舞台です。しかしその場合は巨大古墳や三角縁神獣鏡の出現と時期が合わず、空白の時代が100年以上も存在してしまいます。

江上説は馬が倭国に上陸した痕跡がなかった事で馬具が出土された4世紀となったのかもしれませんが、3世紀の騎馬軍団は裸馬に乗っていたという説が近年有力視されており、木製の鎧も見つかった事で、3世紀の騎馬民族襲来説は俄然信憑性が高まっているのです。倭国大乱も騎馬民族の影響、圧力によって引き起こされたと考えると腑に落ちます。

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(かみつけの里には多くの埴輪が展示されているが、動物、特に馬が多いのは騎馬民族の証か)

ただ騎馬軍団扶余と言えども、その当時100以上もあった言われる倭国の小国全てを力で捩じ伏せるだけの力はなかったようで、二大国の邪馬台国、出雲王国征服(国譲り)後は融和策に傾いたようです。国名も倭(やまと)を受け継ぎ大和としました。先住民の生活習慣も出来る限り尊重し、穏やかな統治を目指したと思われます。大陸の目も意識したのかもしれません。

記紀によると女王卑弥呼をモデルにしたと思われる孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももその姫)は三輪山の大物主(大国主)と恋に落ちたものの、大物主の正体が蛇と知って驚き、転んだ拍子に箸でほと(隠部)をついた事が原因で亡くなったとされています。

それが百襲姫命の墳墓とされる箸墓古墳名の由来となっていますが、騎馬民族が征服した二大国の王をモデルにして珍妙な神話で茶化し、まとめて纏向に祀ってしまえというというのは悪ふざけが過ぎます。滅ぼした王に対する敬意が感じられません。

そもそも卑弥呼にも大国主にも畿内遷都の動機がないのです。鉄(素材)の供給という点でも原料産地の朝鮮南部(伽耶)に近い海側にメリットがあります。それを捨ててまで畿内に移動しなければならない理由を見つけるのは無理があると言えるのではないでしょうか。従って王朝が畿内に移った時点で少なくとも卑弥呼の邪馬大国は滅亡していたと考えるべきです。箸墓の被葬者も卑弥呼ではなく征服者の王と考えると時代性や古墳規模が見合ったものになってくるのです。

その征服者にとって倭国襲来の目的は拠点確保でなく、列島全体を征服するつもりなら出雲や北九州よりも列島の中央部(畿内)は適しています。纒向を拠点にしたのは正にそのためでした。実際にも征服者はその後、四道将軍を北陸、東海、西道、丹波に派遣してまつろわぬ民を帰順させた実績があり、5世紀にもその子孫が群馬他の地域に赴いて支配圏を広げていきました。日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲退治、東国平定なども、その一環と思われます。

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(群馬県上毛野里古墳群 崇神天皇系の豪族である車持氏の古墳らしい。当時の車の意味は馬だそうである)

一説によるとその侵略軍、騎馬民族扶余の王は第10代の崇神天皇で、記紀に書かれた神武東征は、扶余の畿内侵攻をモデルにしたと言うのですが、記紀の、吉備に長期逗留して兵站、兵員の補充を図った話も3世紀の扶余東征をなぞったようです。童話の鬼ヶ島の鬼退治(桃太郎)はここが舞台と思われます。

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(古墳の副葬品であった渡来人の靴は金ピカで縄文的なものとは程遠い感じがする)

因みに記紀では初代神武天皇と第10代崇神天皇の、名に神がつく天皇二人とも「ハツクニシラス・スメラミコト」としています。初めて国を作った天皇が二人もいる事が何度も入れ替わっている王権を暗示しているのではないでしょうか。神武から崇神までの欠史八代が架空ならもっとスッキリしたシナリオになる筈です。モデルが実在したとなると、やはり極端な嘘はつけなかったと見えます。

実はもう一人神のつく天皇がいます。第15代応神天皇ですが、この場合も半島から渡来して来ていきなり大王の座を得ているのです。どう転んでも神功皇后と仲哀天皇の御子とは思えません。にも関わらず記紀にとっては重要な存在だと見えて扱いが丁重です。後に八幡神と習合させて全国に八幡神社を4万社以上も創建するのですから、その血筋の高貴さが窺えます。

一説によると応神天皇は百済の王族で同系の崇神天皇家に婿入りした昆支(コンキ)だと言われています。高句麗に征服される事を恐れた兄の蓋鹵王(コウロオウ)が倭国との同盟を強固にするために462年、加羅系倭国に送り込みました。この時代も倭国は百済から頼りにされていたのです。

その後入れ替わった継体朝も親百済で半島との関係は強化されていきます。4世紀から7世紀にかけて、少なく見積もって100万人の渡来人が来和したとされていますが、大半が百済人(扶余系)ではないかと思われます。

日本と古代イスラエルの関係

北部九州から始まった騎馬軍団扶余による東征の最後は饒速日系出雲族支配の紀伊半島上陸(畿内侵攻)ですが、その前に立ち塞がる大きな島があります。淡路島ですが、そこをスルーしたとは思えません。やはり上陸して東征軍の背後を固めたのではないでしょうか。

その、古事記でも国生み物語で有名な淡路島ですが、不思議な古代遺跡があります。戦前に発見され戦後日の目を見ましたが、どうもイスラエル系の遺跡らしいのです。発掘にはイスラエルのローゼン司教やコーへン駐日大使も立ち会いましたが、やはりイスラエル由来のものという事になったようです。

余談ですが、イスラエルの失われた10支族の調査機関アミシャーブは独自による調査の結果、日本人を古代イスラエル人の祖先と公式に認めています。さらにイスラエルの元軍人で神道の神官であるヨセフ・アイデルバーグ氏は何度も来日し、日本語とヘブライ語の類似点を5000語もリストアップ、文化や道徳感の共通性、旧約聖書と記紀の共通点も明らかにしました。

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 それらを裏付けるように、淡路島の遺跡の近くで発見された指輪には六芒星が描かれたものと、鹿が描かれたものがあります。(上の画像参照)六芒星はダビデの星をイメージし、鹿はイスラエルのナフタリ族のトーテムなので、発掘当時、古代にイスラエルの失われた十支族が上陸したと騒がれました。六芒星の方にはシオンという文字も書かれていると言います。

そこで調べると何と騎馬民族扶余のトーテムは鹿(プヨ=扶余)だと言うのです。これで古代イスラエルから天皇家までの流れが一直線に繋がりました。扶余族は崇神天皇以降の日本の天皇家に大きく関与していると思われます。その証拠に奈良の春日大社や常陸の鹿島神宮には生きた鹿が神の使いとして数多く飼われているのです。

さらに鹿島神宮(茨城県)とゆかりの深い香取神宮(千葉県)の全ての石灯籠(左下画像)には鹿のレリーフが彫られています。神宮と名のつく神社に天皇家と無関係な祭神を祀るとは思えません。トーテムとされた動物も然りです。

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(ちなみに京都御所の清涼殿、天皇の座(右画像)には獅子とユニコーン(狛犬)が置かれている。ユニコーンと鹿は角繋がりか?さらにユニコーンは北イスラエルのヨセフのトーテムなので話は見事に繋がる。)

と言う事は鹿島神宮の主祭神である武甕槌大神(たけみかづちおおかみ)と香取神宮の主祭神、経津主神(ふつぬしのかみ)は天皇家サイドの神という事になります。二神共、神話ではコンビを組んで出雲族を滅ぼした武神とされているので、同ルーツを持つ天孫族征服者として崇拝しているのかもしれません。

それはともかくとして、以前より天皇家はイスラエルのエフライム(族)がルーツだという説がありました。キルギスのマナス叙事詩にもヨセフの子マナス(マナセ)と別れた兄弟(エフライム)が海の方に行って日本人になったとあります。という事はいずれにしても北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされた紀元前8世紀以降に渡来した事になるのです。しかしその場合だと縄文系と言われている今の天皇家のDNAとの関係はどういう事になるのでしょうか。

天皇家のY染色体ハプログループは縄文人と同じD系で、D1a2aと言われています。一方のイスラエルの方もエフライム族とマナセ族がD系だというのですから驚かざるを得ません。後に付く数字と文字は新しい順につけられるそうなので、最初の大文字がルーツの同一性を知る鍵になります。

偶然の一致としてはすごい確率ではないでしょうか。世界で殆ど例を見ないDNAで、イスラエルの調査機関アミシャーブもD型はイスラエル人の中でもマナセ族とエフライム族以外には見当たらないと言っているのです。

アシュケナジーと言われる白人系ユダヤ人に多いのは5万年前にD型から分岐したE型と9世紀以降にハザール王国がユダヤ教に改修してから増えたと言われるコーカソイドのR型やJ型なので貴重なDNAが日本に多く残った事になります。何が貴重かというとDE型はヤップ遺伝子と言われ、またの名を親切遺伝子とも言うのだそうです。和をもって尊しとなす、という聖徳太子の言葉が浮かんできます。その時代、他国でそんな平和な事を真面目に言っている王がいたとは思えません。

実は聖徳太子は蘇我氏系(馬子?)と言う説があります。蘇我馬子を分解すると我蘇る厩戸の子となりキリストを連想させますが、聖徳太子の厩戸皇子とも大きく被るのです。そもそもふざけた名前です。新約聖書を知っている著者が蘇我氏を貶める目的で意識的につけた虚名だと思われます。稲目はともかく、蝦夷(えみし)も侮蔑的だし、入鹿もふざけています。馬子と入鹿でバカになりますから相当な悪意です。

実際には、用明天皇系蘇我氏の輝かしい業績をそのまま残したのでは乙巳の変の正当性が失われるため、色々な仕掛けを記紀に施したと思われます。蝦夷が自害する時に天皇紀や国記に火をつけたと言われているのも意味不明です。クーデター側にとって都合の悪い過去や証拠を隠滅するために燃やし、蝦夷のせいにしたと考えた方が腑に落ちます。

つまり蘇我馬子(聖徳太子)は素晴らしい大王だったのです。架空の聖徳太子は蘇我氏の消せない輝かしい功績を一人のスーパーヒーローの手柄に集約させ消してしまう役割として登場させたと思われます。反面蘇我氏は太子一家を皆殺しにした極悪人である必要がありました。

入鹿が中大兄に切られた場で、蘇我倉山田石川麻呂は入鹿に対し帝(みかど)と言う表現を使っています。これは入鹿が実は鞍作天皇であったことを意味し、また中大兄の義兄に当たる古人大江皇子は「韓人が鞍作を殺した。心が痛い」と言っているのですが、韓人とは中大兄の事だと思われます。古くから倭国にいた百済人も新参百済人に対しては韓人という表現を使っていたようです。いずれにしても人には堂々と言えない、いかに大義のない暴挙であったかが窺えます。

ところで、聖徳太子(馬子?)は大陸騎馬民族、突厥(とっけつ/西トルコ帝国)の達頭(たっとう)がモデルと言う説もあるようです。6世紀に西突厥はハザール王国(アシュケナジー系ユダヤ人の故郷)を支配していた時代もあるので、典型的D型に見える聖徳太子はDから分岐したE型ユダヤ人である可能性も否定出来ないようです。ちょっと混乱して来ます。

話は5世紀に戻ります。応神天皇に率いられて4〜5世紀に渡来した原始キリスト教徒である秦氏の弓月君(ゆづきのきみ)はルーツが秦始皇帝だと自称しています。と言うことはペルシャ経由の南ユダ王国がルーツの可能性が高いのでユダ族かベニヤミン族という事になります。Y染色体遺伝子はE型ではないかと思われるのですが、中国人男性由来のO系統、O2a2b1a1a だという説もあるようです。

ちなみに秦氏の第一陣はBC3世紀の徐福一行ですが、その中にいた天忍穂耳(あめのおしほみみ)のY染色体ハプログループはDだという説があります。彼らは北九州に秦王国を築きました。第二陣の弓月君は大陸の騎馬民族、突厥との親和性が高かったようで秦河勝は聖徳太子(阿毎多利思比孤/厩戸皇子=馬子)をキリストの再臨とでも思ったか強力に支援したと言います。(秦氏の伝承に日本でメシアが再臨するという予言がある)

ところがその甲斐なく政敵に陥れられ一族郎党命を落とす事に、再臨はなかったようです。因みに阿毎多利思比孤(あまたりしひこ)は諡号(亡くなった後の名/聖徳太子)が目一杯の尊称になっている事からも政敵が祟りをすごく恐れていた事が窺えます。

推古天皇も実は存在せず、聖徳太子(馬子?)が天皇(大王)であると不都合な勢力が妃を天皇と偽ったようです。やはり大王殺しは罪が重いのです。同時代の記述がある隋書の倭国伝には、阿毎多利思比孤は後宮に七百人もの側室を持つ日本の王として表されています。これが女性の筈はありません。

その(5)に続く

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