日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(5)
その(4)からの続きになります。
続いてトラヴィダ族を制圧したと思われる出雲族ですが、神話からは北イスラエルのダン族の末裔である可能性が高いです。蛇がトーテムである事、亀甲紋が六芒星を内包する点、天孫族に巨大神殿を立てさせた伝説(その証拠の巨大な柱跡が近年発見された)イスラエルの12氏族が10月に集合して団結を確認しあったという伝承も出雲旧暦10月の神在月と似ています。エドム=出雲という見方もあるので、この説もあながち眉唾とは思えないのです。
興味深いのは、この滅ぼされた出雲族(ダン族)と滅ぼした側の天孫族である扶余(ナフタリ族)とは同じ故郷を持つ北イスラエルの10支族だという事で、それなら言語が方言的違いはあるにせよ基本同じだという理由が理解出来るのです。通ってきたルートによって変化するのはごく自然な事だと思われます。
日本神話でイザナギとイザナミが結ばれる時に淡路島で御柱の周りを回りながら「アナニヤシーエオトメヨ」「アナニヤシーエオトコヨ」とヘブライ語で誓いの言葉を言ったのも、やはりスファラディ系(アジア人)ユダヤ人が最終目的地のミゾホラである日本で国造りをしたからなのです。という事は神話を書いた側もアジア系ユダヤ人という事になり、その構図は今でも変わっていないと思われます。
かなり分かり難くなって来ましたのでまとめます。古代から日本にいた縄文人のY染色体ハプログループはD型であり、弥生時代に渡来して大和国を建国した渡来人の支配層もD型でした。これが意味するのは3万8千年前に別れた別のD型が新たに渡来して来たか、あるいは一度列島に来てその後何らかの理由で列島を離れた一族が色々な場所を経由して戻って来たかのどちらかという事になります。
下の図で弥生人に縄文系遺伝子の率が高いのは渡来人に縄文系遺伝子を持った人が多かった証です。武力的にも圧倒的に優位な弥生人が満足な武器も持たない縄文人に飲み込まれる事は考え難いので、弥生時代に爆発的に増えた人口の大半は稲作技術を持った弥生人由来と思われます。
そうなると、昔から列島にいた縄文人が弥生時代に渡来系征服王朝の大王になる事は考え難いので、天皇家は初代から弥生系渡来人という事になります。天皇家の行事である大嘗宮の儀で行われる占い、亀卜が5世紀まで日本になかった事もその説を強化します。(亀卜は殷がルーツとされている)
BC660年に即位したと言われる初代神武天皇は記紀の辻褄合わせの産物なので魏に朝貢していた邪馬台国が3世紀に滅亡するまで列島に大王(天皇)らしきは存在しなかったのです。存在したとしても一拠点を支配する部族王に過ぎず、大王と呼べるようなものではありませんでした。正式な初代日本国天皇は7世紀の天武天皇です。それまでの王は大王(おおきみ)と呼ばれ初代大王は3〜4世紀に渡来した崇神天皇だと思われます。
BC660年は推古9年(AD601年、聖徳太子の改革年)から1260年を引いた数字で、それは中国の辛酉革命から来ているのです。そこまで引き伸ばすために欠史八代と言われる天皇(当時はただの王)の在位期間を長くせざるを得ず、妙に長寿の天皇が多くなったというのが真相だと思われます。
余談になりますが渡来人同士の争いの末、皆殺しにされ溝に無造作に埋められていたという、鳥取県の青谷上寺地遺跡で発見された弥生人の大量の骨を分析した結果、女性(ミトコンドリアDNA)は同じ系統が二組しかなく、他の30人余は全くの他人同士だったようです。
分析可能だった4人の男性(Y染色体)の内3人がD型だという結果も驚愕です。2世紀の100名程度の渡来人部落(男女比率5分5分)は今の都会のように出自が多彩な人の集合体だったのです。
日本の土壌は基本的には骨が溶けやすい酸性なので古代人の骨はほとんど残っていません。青谷上寺地の場合は奇跡的に保存状態が良く109人分の骨が発掘されました。時代性を考えると丁度倭国大乱の時期に当たり、何らかの衝突があったものと思われます。10体以上には男女を問わず武器によると思われる殺傷傷があり、しかも骨はバラバラに散らばっていたと言います。
ところで初代神武天皇の諡号はカムヤマト・イワレビコ・スメラミコトと言ってヘブライ語訳では「神の民の上に立つユダヤの初子でサマリアの尊い王」という意味になり、ヤマト(神の民)は大和、スメラからは明らかに古代イスラエル(首都がサマリア)、あるいはシュメールがイメージされます。
つまり記紀に神話を創作した側(最終的には藤原氏)も同じルーツでなければそんな突拍子もない事は書けないので、その時代から日本の支配層は古代イスラエル、あるいはもっと前のシュメールをルーツに持つ事になると思われます。
宗教に関して
ここまで一気呵成に仮説ファンタジーを展開して来ましたが、この日ユ同祖論は意外にも戦前に信じられて来たようです。書物も沢山あったそうですが、なぜか進駐してきた米軍(GHQ)が焚書にしたと言うのです。GHQは仁徳天皇の御陵(大仙古墳)を無断で発掘したり、阿波の剣山から海人族と思われる顔に刺青のあるミイラ10体を夜陰に乗じて押収した事が当時の徳島新聞(下の画像)に報道されているのですが、古代ユダヤ関係に対する興味の持ち方が半端ありません。
まさか失われたソロモンの秘宝、三種の神器であるマナの壺やアロンの杖、またモーセの十戒が刻まれた二枚の石板が入った聖櫃アークが日本にあるとでも思っているのでしょうか。アシュケナジーユダヤが支配する大国アメリカとしては捨ておけなかったのかも知れませんが、まるで映画の世界のようで、嘘みたいです。(笑)
ちなみにシュメールにも三種の神器があって、そちらの方が日本のものに近いようです。剣と鏡、首飾りの組み合わせです。特に剣は日本の場合と伝承が同じで7つの首を持つ竜を退治したと言うのです。日本の三種の神器は熱田神宮に眠ると言われる草薙剣、翡翠の勾玉、伊勢神宮にあるとされる八咫鏡ですが、アークに構造が似た神輿にそれらを入れるという話は聞いた事がありません。
ところで諏訪大社の祭りなどを見ると旧約聖書の内容と妙に一致します。御柱祭はアブラハムの時代に神の依代であるレバノン杉をエルサレムの広場へ運ぶ儀式にそっくりだし、御頭祭も羊と鹿の違いはあるにしても75頭の首を生贄にして神に供えるのは縄文の精神とは相入れず外来の臭いプンプンです。旧約聖書の、アブラハムが神に感謝して羊75頭を捧げた話がルーツとしか思えません。
神官が男児(おこう)を神に捧げようと短剣を振り上げた瞬間、神の使いに止められる茶番劇も聖書と同じで神の身勝手さが垣間見え八百万の神を信奉して来た縄文の精神とは程遠い感じがします。
諏訪大社の祭神は武甕槌に追われた出雲族の大国主の第二子、建御名方、その妻八坂刀売神となっていますが、日本にはいなかった羊の代わりとは言え鹿の首を75頭も切って供えるという行為は謎です。出雲族のルーツが前述のようにイスラエルのダン族だとすれば、同じイスラエルでもナフタリ族のトーテムである鹿は生贄の価値しかないと見えます。
想像の域を出ませんが、鹿トーテムの扶余族である武甕槌に滅ぼされた出雲族は扶余に強い恨みを持っていて生贄には意識的に鹿を代用させたのでしょうか。それにしても毎年75頭も首を切るというのは尋常ではありません。現在は剥製に変わっていますが、それでもあまり気持ちの良いものではないのです。
渡来人には、やはり世界基準の荒々しさが目につくのですが、それを持ち込んだのが縄文と同じDNAを持つ渡来人だとしたら、随分変貌した姿で戻ってきたものだと呆れます。
縄文時代に日本を離れた彷徨う縄文人がメソポタミアに辿り着き、幾多の苦難を乗り超え日本に帰還するまでにエジプト、カナン、トルコ、インド・スキタイ、匈奴、扶余等を経ていく過程で首狩族になり、身内で殺し合うだけならまだしも、主君の死に際し、生きた付き人や奴隷数百人を共に埋葬するおぞましい風習まで身につけるのは想像を絶する試練だったようです。人柱という悪しき伝統も割合最近まで残っていたと言います。親切遺伝子が聞いて呆れます。
問題はこれからで、列島に戻った元縄文人はまた昔のように自然を畏敬するアニミズムの世界に戻る事はあるのでしょうか。日本の宗教は縄文時代には八百万の神を尊ぶ素朴なもので、渡来人が色々な神、宗教を持ち込んだのは明らかです。渡来人一番手トラヴィダ人は男女の性器がモチーフのクナト神、アラハバキ神の信奉者でした。東北に今も一部は残っています。
(この遮光器土偶はアラハバキという説がある。大和朝廷からの弾圧を避けるためにクナトは地蔵に、アラハバキは弁財天になった)
続いて秦氏系の第一弾、徐福一行が持ち込んだのは道教です。多神教ながらシャーマニズムが主体の宗教で、神の神託を政治に利用し民を惑わすカルト的宗教と言えます。卑弥呼や台与などの巫女的女性(シャーマン)によって祭祀が執り行われました。
そこに割り込んできたのがユダヤ教との親和性が高い物部氏の神道です。例えば諏訪大社の行事である御頭祭や御柱祭は旧約聖書の内容との類似性は極め高いと言えます。ところが諏訪大社の主祭神は建御名方です。建御名方は出雲族であり、出雲族は旧約聖書が完成する前から日本にいました。つまり旧約聖書の内容は知らない筈なので混乱して来ます。そこで注目すべきは当地にある守谷山や物部守屋神社です。
物部氏は恐らくですが、第一次渡来の秦氏の中にいたか、あるいはそれに近い時代に渡来したユダヤ系渡来人と思われます。名前の守屋はイスラエルにもあるモリヤ山由来で、神道(原始ユダヤ教)を守るための戦いで敗れました。旧約聖書を信奉していたからこその結果であると思われるのです。
その物部神道を封じ込めた仏教ですが、当時の政権には唐からの強い圧力があったと思われます。漢字を導入し宗教も導入せざるを得ない程の差し迫った状況が当時の倭国にはあったのではないでしょうか。朝貢国として倭国の安全保障を優先した結果です。
しかしながら空海の時代には仏教は姿を変えていきます。遣唐使として唐で学んで来たのは当時大陸で広く受け入れられた景教(ネストリウス派キリスト教)だったのです。弓月の国出身で原始キリスト教徒であった秦氏の支援を受けて特別待遇だった空海は唐に到着後、自らの意思で大陸を縦断、西安(長安)に赴き恵果和尚の下で、わずか半年で免許皆伝を受けました。
そもそも色々な分野での先端技術を日本にもたらした秦氏は特に宗教活動に熱心で、日本全国に八幡神社と稲荷神社を創建していった話は有名です。一説によると八幡はヤハウェを表し、稲荷はキリストを表すと言います。
稲荷(伊奈利)はI.N.R.I、すなわちJesus Nazarenus Rex Iudaeorum の略でナザレのイエス、ユダヤの王の意味なのです。N(ん)の単独での発音がなかった古代日本語ではINRIを「いなり」と発音したようです。そのINRIはイエスが磔になった十字架に罪状として刻まれています。ちなみに稲荷と狐は関係ありません。神仏習合で仏教側から入ったと言われています。
このように日本神道だけでなく、仏教もキリスト教の影響を多大に受けていたという話は実に興味深いです。それらを強力にプロデュースした秦氏の目的は何なのか? 私財を投げ打ってまで平安京構築に尽力したのは実は平安京にエルサレム(平安な都)を投影し、メシア再臨の地としたかったからでしょうか。
空海が作ったと言われる「いろは歌」がありますが、実はそこには重大な秘密が隠されていました。
最下段を右から左へ読むと「とかなくてしす」(咎なくて死す)と読めます。イエス・キリストは何の罪(咎)も犯さないのに人々の罪を一身に背負って死罪になりました。次に最上段を右から読むと「いちよらやあゑ」(一張羅ヤハウェ)となりますが、これは最高神ヤハウェ(ヤーウェ、ヤーヴェとも言う)を意味するのです。さらに右上、左上、左下を読めば、い、ゑ、す、となります。
民の救済を第一としたキリスト教と支配層の知的好奇心をくすぐるファッショナブルグッズとも言える当時の仏教ではコンセプトが全く違います。空海が景教を真言密教として日本に導入した目的は正にそこにあったのではないでしょうか。
真言宗の僧侶は袈裟の下で十字を切ると言います。父と子と聖霊の御名においてアーメンです。驚いた事に大日如来、天照大神、キリストは同一の太陽神だったのです。もっと言えばイスラム教のアッラーも根は同じと言われています。空海はまた四国八十八ヶ所巡りでも有名ですが、八十八という数字は特別な意味を持ちます。
例えば日本人の最も重要な食料であるコメは米と書き一文字で八十八とも読めます。さらに米は十とXが重ねられているようにも見えるのです。つまり十字架にX(キリスト)が磔になっている訳です。80はまたヤソとも読め、耶蘇教をイメージさせます。
さらに8X 8は64となり日本の5節句は1月7日の七草から64日毎に設定されています。このように勝利の意味を持つと言われる88は色々なところに使われていて、四国八十八箇所も何かを守る結界を張るために設定、創建されたのではないかと思えて来るのです。
では何を守りたかったのかですが、やはり剣山にあると言われるアークでしょうか?そうなると物部系で祭祀を司る母系の阿刀氏と、父方の秦氏系である佐伯氏の血が流れる空海も旧約聖書の内容や渡来人が阿波で何をしたかを知っていた事になり、生まれながらにして、ある使命を帯びていたのかも知れません。その不思議な霊力、功績を見るにつけ、我々の想像力を遥かに超える存在と言えます。
さて、件の景教(ネストリウス派キリスト教)は偶像崇拝もキリストの母マリアの神性も認めませんでした。それゆえ異端とされたのですが、ローマ国教となったキリスト教カトリックは醜く変貌し、ヤハウェが禁じた偶像崇拝は守られず、為政者や教会側に都合の良い、何でもありの金権宗教に堕落していったのです。
翻って我が日本ですが、無宗教に慣れた彷徨える現代人はどこに心の拠り所を見つけるのでしょうか。カルトにまで堕落した偶像崇拝なのか、縄文の八百万の神信仰に見られるアニミズムなのか、あるいはそれがもし人工物の最たるもの AI なら日本人の未来が明るいとはとても思えないのです。
次回、最終回に続く
| 固定リンク
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしてるのか?(最終回)(2024.08.30)
- 日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(5)(2024.08.29)
- 日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その4)(2024.08.26)
- 日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その3)(2024.02.07)
- 日本人はどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?(その2)(2024.01.29)
コメント