メリークリスマス23
早いものでもうクリスマスシーズンがやってまいりました。今年のテーマは「Dの帰還」です。
日本列島にはまず縄文人が先住民として住んでおり、そこに見ず知らずの弥生人が押し寄せ、縄文人を南北に追いやりながらも融和し混血していったというのがこれまでの定説である二重構造モデルでした。
しかし、ではなぜ渡来人(弥生人)が押しのけたはずの先住民の言語、古代日本語が共通言語になったのでしょうか。世界の例では後から入って来た力の強い者の言語がその国の言語になっています。
日本の場合、人口が数万人規模でしかない列島に大陸で揉まれた技術も知恵もある人達が何度も渡来して来たのです。その集団が平和で戦いを知らない縄文人に屈するというのはおかしな話ではないでしょうか。私にはそこがず〜っと疑問でした。
ところで最近はD N Aの解析技術が進歩して人類の移動や混血の具合など色々な事が分かるようになったと言います。それによるとアフリカを離れた初期の人類は世界に散らばり北東アジアにも3万8千年くらい前には到達したそうです。
その時に日本列島まで辿り着いた人々は男性が持つY染色体ハプログループで言うと四番目に古いD型でした。(Aから始まり最後がR型)但し同じDでも日本だけでなくアジアの北の方まで上がっていったグループもいたそうです。
大きく時は流れ今から3千年前頃には、初?の渡来人がやって来ます。しばらく経って紀元前3世紀にも大陸からある知的集団が到来しました。ご丁寧に二度に渡ってです。その後は五月雨式に渡来ラッシュが続くのですが、秦氏の集団渡来は有名で日本が大きく変わったきっかけになったと言われています。
そこで調べてみると、卑弥呼と入れ替わるように3世紀末には巨大前方後円墳が現れ、続いて馬が出現し神社が増え、大陸との行き来も活発になっていきました。人口が爆発的に増えて種々の文化が花開き、7世紀にはあの香り高い歌集である万葉集が編纂されます。
弥生時代後期から飛鳥時代にかけて急速に列島が動き始めたのです。この流れを見る限り、どう考えても渡来人が日本を変えていったとしか思えません。
あまりにも縄文人の存在感がないのです。南北に押しやられた彼らはそこでひっそりと暮らしていたのでしょうか。しかしながら最近の研究だと本州にも30〜40%の縄文人由来のD型の男性がいると言うのです。
それは非常に妙な話です。ハイテク渡来人に混じって旧来の土着縄文人が存在感を発揮したと言うのはあり得ないとまでは言えないものの、二重構造モデルからはイメージ出来ないし、世界の常識ともかけ離れています。何があったのでしょうか?
結論を急ぎましょう。ごく最近の研究によると、あるD型グループは世界を半周して最後に日本に集結したと言うのです。そのせいかチベットやバイカル湖周辺にもDは散見されます。アンダマン諸島にもいるのですが、これは別系統かもしれません。
それが3万8千年前に別れたDグループなのか、あるいは日本列島到達後に火山活動や気候変動で住めなくなり西に移動したグループなのかは分かりませんが、とにかく渡来人の中にD型がかなりな割合で混じっていた事は確かなのです。
これでやっと長年の課題だった私の疑問が解けました。天皇家がD型と言われるのも本州にDが多いのも渡来人由来のものだったとすれば、言葉の謎も含め全て氷解するのです。そもそも縄文系渡来人の言語は長い年月世界を巡る間に全く違ったものになっていました。
一方の縄文語は恐らくアイヌ語や琉球語に近い言語であって大きくは変化しなかったと思われます。つまり言語だけでなく国家体制も渡来人が持ち込んだと考えれば、万世一系はともかくとしても、D型が長い期間守られて来たという天皇家伝承は理解出来るのです。
しかしながら日本の場合は人種の坩堝であり、D型だけでなく大陸由来のO型2系統他、もっと古いCや新しい系統も数多く残っており、南米のような特定のD N Aが独占した痕跡はありません。つまり結果的に見て稀に見る平和な国、共存共栄の国が日本なのです。
そんな事をぼんやりと考えながら巫女サンタ、虎衣やよい嬢のそりは縄文人が住む縄文村へと急ぎます。物価の高い昨今、安くて良いプレゼントを弥生町で探すのに手間取り夜明け近くになっていたのです。
「弥生町の長老たちはほんまにがめついわ〜。縄文村のデコピン君は人懐っこいし、ええ人やったんよ。プレゼントの97%は10年後でええなんて、信じられんわ。」巫女サンタが見つめる雪の大和はやはりまほろば、おおらかで美しくも、なぜかちょっぴりやるせない空気に満ちていました。
ロマン溢れる古代史、本当に興味が尽きません。 今年一年お世話になりました。また来年もよろしくお願い致します。皆様に良い年が訪れますように。
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